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農業は先進国型産業になった!

日本ワイン比較優位産業論 現地ルポ 第11回 地球温暖化追い風に技術革新 桔梗ヶ丘メルローの先駆者 (株)林農園五一わいん(長野県塩尻市)


しかし、翌20年、第1号ワイン「鷹の羽生ブドウ酒」を販売したが、本格ワインの需要はほとんどなく、悪戦苦闘の日々が続いた。その苦境を救ったのが、昭和初期の“甘味葡萄酒ブーム”だった。
先述したように、後に寿屋(現サントリー)と大黒葡萄酒(現メルシャン)が塩尻に工場進出したほどであったが、林農園も甘味葡萄酒の原料用として、コンコードで造ったワインを供給することで生き残った。1964年の東京オリンピックの頃までこの状況が続いた。

気候変動が桔梗ヶ原を変えた
桔梗ヶ原ワインは、64年東京オリンピックを契機に大きな転換があった。人々の好みが人工甘味ワインから本格ワインへ移り、ブドウ品種コンコードは行き場を失い、ブドウ農家に危機が訪れていた。この事態を救ったのが欧州系の醸造専用品種メルローであった。この時の功労者も林農園であった。
1952年に遡るが、林五一・幹雄父子はメルローと出会った。二人は山形県赤湯からメルローの穂木を持ち帰り、植えた。桔梗ヶ原メルローの第1号である。しかし、当初は桔梗ヶ原の寒さに耐えられず枯れ、実を結ばなかった。幹雄氏は試行錯誤を繰り返しながら、凍害を避けるため、「高接ぎ法」を考案した。病気にも寒さにも強い台木、免疫性台木を使用し、その台木を棚下まで伸ばし、高い位置で接ぐことで凍害を緩和した。
ひときわ寒い冬でも、高接ぎしてあったメルローは被害を免れ、逆に寒さに強いはずのアメリカ系のナイアガラ、コンコードは凍害被害が大きかった(注)。
一方、1960年代後半になると、本場ヨーロッパのワインが日本でも飲まれるようになり、甘味葡萄酒は売れなくなり、ジュース用と甘味葡萄酒の原料ワイン用に需要があったコンコードは大打撃を受けた。
農家の窮状を救えないかと、山梨県勝沼の大黒葡萄酒の「ウスケ」さん(浅井省吾課長)が来て、「ヨーロッパでできるようなワインが日本でできるなら、それに変える。そんな品種はあるでしょうか?」。幹雄氏「ありますよ、うちの畑にあるメルローです」。
76年、浅井課長は思い切って6000本のメルローを栽培することを決断し、生産農家に栽培転換を依頼した。これほどの規模で一気に転換したことに幹雄氏は「これで失敗すると困ったな」と重責を感じたが、それは杞憂であった。
10数年後の89年、「シャトーメルシャン信州桔梗ヶ原メルロー1985」は、リュブリアーナ国際ワインコンクールで大金賞を受賞。これによって、桔梗ヶ原メルローは広くその名を知られるようになった。幹雄氏は受賞をわがことのように喜んだという。

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