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江刺の稲

豊かさの中の「不安病」とは言い過ぎか

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第283回 2020年01月29日

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父が僕を背中に乗せ多摩川で泳いだのを覚えている。東京の雪谷に住んでいた4歳か5歳の頃だから1953年(昭和28年)か54年だ。多摩川も下流域、大田区の丸子橋付近でもきれいな川だった。
55年(昭和30年)、小学二年生の時に父の転勤で熊本県水俣市に移り住んだ。すでに水俣湾は新日本チッソ水俣工場が排出した工場廃液中の有機水銀で汚染されていたが、工場付近を除けば水俣の海は青く澄み沢山の魚が泳いでいた。真実を人々が正しく理解したのは少し後のことだった。
患者やその家族の不幸はいうに及ばず、市民もチッソ関係者も含めて長く困難な時代が続いた。それでも、有機水銀を含んだヘドロは壮大な国費をかけて浚渫され、網で囲われた水俣湾の魚も取り除いて埋め立てられた。やがて水俣湾でも昔と同様に漁が行われ、その魚は県外にも流通するようになった。
そして今では、被害者の患者団体はもとよりチッソ関係者も含めて水俣市民はこぞって新しい環境づくりに取り組んでいる。

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