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新・農業経営者ルポ

福島県浜通りの未来を切り拓く


避難生活をする広志のもとに、津波の被害を免れた組合員から「コメをつくってもいいのか」という電話がかかってくる。組合員を放っておけなかった広志は、11年のうちに再び一家を連れて南相馬市に戻った。組合の仮事務所を相馬市につくり、南相馬市の仮設住宅から通って仕事を続けた。
一方、千葉に避難しながら農業の修業をしていた草平は、父の広志にある決意を伝える。
「農業をやるなら、やはり福島でやりたい」
「そうか。それなら福島に農地がいるな」
父は息子のために農地探しを始めた。新地町に相談すると、「三浦さんが来たら面白いかもね」と、宅地と2haの農地を紹介してくれた。こうして12年、家が建つまで仮設住宅暮らしのままコメづくりを再開した。
それから目まぐるしい日々が始まった。南相馬市の仮設住宅で浸種し、新地町のビニールハウスに運んで苗を育て、なんとか田植えに間に合った。新地町には乾燥調製施設や作業場も建てた。再開して初めて収穫したコメを乾燥調製しようとしていると、福島県からの依頼が舞い込む。
「やはり福島県産のお米はすべて測らなければならないということになった。今年から全量全袋検査をやることにした。検査機を持っていくから協力してくれ」
専用の場所がないため、相馬市から割り当てられた検査機を新地町に建てたばかりの乾燥調製施設に受け入れて検査した。走りながらのぎりぎりの作業だった。
「もうね、泥縄方式ですよ」
14年、みさき未来を立ち上げた。草平が代表として新地町で一家の農業経営を率い、広志は相馬市で組合を率いながら、みさき未来は、ふるさとの南相馬市井田川の農業再興という親子共通の目標を掲げた。

浜通りの農業を再興できる仕組みをつくる

ここまで聞けば、広志はいわゆる地域の「顔」なのだと察しがつく。広志は浜通り全体の農業を再興するために動き出していた。浜通りの海岸近くの水田は、津波で水路が被害を受け、表土が削られ、がれきが残り、雑草が生え、すっかり荒れた状態だった。
この地域をどうするのか。問題は、復興事業の補助金をどう使えば復興につながるのかということだった。広志は東京では農水省が考えている政策を聞き、福島では県や市町村、農協、地域の農業者らの意見を聞きながら、農水省と福島の人々の間に立って話し合いを進めた。
当初、農水省では水系ごとに復興組合をつくる話が出ていたが、それではエリアが広すぎて市町村や農協が調整するのが難しい。国の補助を受けられる条件は2つ。地域の協働作業でやることと、実際に働いた人にお金が支払われることだった。そこで広志は農水省にある提案をした。

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