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【農業は先進国型産業になった!】
日本ワイン比較優位産業論 現地ルポ 第17回 金銀賞連続7回のワイナリー家族経営で手作りの味醸す 源作印(有)秩父ワイン(埼玉県小鹿野町)
- 評論家 叶芳和
- 第37回 2020年05月25日
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1 武州街道を行く――秩父の歴史がワインをつくった
秩父は山の中にある(山々に囲まれた盆地)。奥秩父でワイン造りと聞いて、「陸の孤島」でなぜ?と思った。東京から見ると、「源作印」ワインを造っている小鹿野町は秩父の山奥のイメージである。
小鹿野町(人口1万1000人)は秩父の名峰・両神山の麓にある。忘れていたが、秩父の山は雲取山も両神山も、若い頃登山したことがあり、親近感を感じる。調べていくと、小鹿野町は着物で有名な「秩父銘仙」の産地であり、また、江戸時代から伝わる「小鹿野歌舞伎」も有名だ。生糸で栄えた地域だ。
山国秩父は、江戸時代半ば以来、養蚕が盛んだった。農民たちは山の斜面を利用して桑を植えた。生糸による繁栄は江戸末期の横浜開港(1857年、安政4年)で生糸輸出が始まり、爆発した。山畑はほとんどが桑園に変わった。松方デフレの前、1881年(明治14年)までが最盛期であったが、生糸は高度経済成長期の昭和40年代中頃まで続いた。
秩父の生糸輸出はフランス市場との結びつきが強かったが、その縁で、秩父郡内における最初の小学校「大宮学校」(明治6年創立)は大火で類焼したところ、明治17年、フランスの援助で新校舎が建築された(現秩父市立秩父第一小学校)。
さらに、小鹿野町は江戸(武州)から上州・信州に抜ける交通の要所であり(武州街道、現国道299号)、江戸から明治にかけては秩父郡内きっての繁栄であった。陣屋がおかれ、市が立ち、宿、遊郭があり、大宮郷(現秩父市)より活気があった。明治2年には上小鹿野村が小鹿野町と改称したほどだった(明治22年町村制施行前。当時、宿場町や門前町のような商業機能が優勢な集落は「町」と呼ぶことがあった)。生糸だけではなく、街道の効果も大きい。小鹿野町は「地誌学」の研究対象としても面白そうだ。
武州街道を調べていくと、「秩父事件」(1884年、明治17年)に遭遇した。明治の自由民権運動の影響を受け、農民が起こした武装蜂起事件だ。小鹿野の村民の90%以上が参加したといわれる。指導者層はかなりのインテリだったようで、軍用金集方の井出為吉(信州南佐久)の自宅からは『仏国革命史』『民権自由演説規範』などの膨大な蔵書が発見されている。農民たちは武州街道を通って信州や上州と行き来した。また、秩父は生糸で栄えたが、蚕の卵は佐久のタネ屋から入ってきた(品質は信州ものが良かった)。卵は信州、養蚕は信州より温暖な秩父の桑の木でというパターンだった。このように、武州街道は生糸産地の発展や秩父事件に大きな役割を果たした(注)。
注:秩父事件は1884年(明治17年)、秩父郡の農民が負債の延納、減税などを求めて起こした武装蜂起事件。明治政府は西南戦争による戦費調達で生じたインフレを解消しようと、緊縮財政を実施した。この松方デフレにより、繭や米などの農産物価格の下落を招き農村窮乏を招いた。さらに、1882年の仏リヨン生糸取引所における生糸価格の大暴落の影響も加わり、生糸価格は大暴落した。秩父の生糸輸出はフランス市場との結びつきが特に強かったので、この生糸大暴落の影響を強く受けた。経済的困窮から、農民は秩父困民党等に結集し放棄活動に走り、暴動は群馬・長野の町村にも波及し一大騒動となった。
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叶芳和 カノウヨシカズ
評論家
1943年、鹿児島県奄美大島生まれ。一橋大学大学院経済学研究科 博士課程修了。元・財団法人国民経済研究協会理事長。拓殖大学 国際開発学部教授、帝京平成大学現代ライフ学部教授を経て2012年から現職。主な著書は『農業・先進国型産業論』(日本経済新聞社1982年)、『赤い資本主義・中国』(東洋経済新報社1993年)、『走るアジア送れる日本』(日本評論社2003年)など。
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