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人生・農業リセット再出発

パンデミック・民衆に惨殺された名医

人は見えない不安が続くとパニックになり、デマ一つで動物と同じ凶暴集団になる。宗教異民族対立の虐殺、叩き壊し一揆、買いだめ騒動の集団ヒステリーである。房総太平洋岸の鴨川市で私はヘリポート付きの病院で2カ月も食道癌の闘病生活をした。
鴨川と勝浦の間に小さな漁村、天津小湊(あまつこみなと)がある。海面が激しく泡立って真鯛の大群が泳ぎ回る「鯛の浦」は鎌倉時代に“日蓮”が生まれて鯛の群れが祝福した伝説があり、天皇陛下も訪れている。
明治維新から9年後、中国からイギリス軍艦が長崎にコレラを持ち込み瞬く間に日本を汚染して大量の死者が出て、鴨川も400人超が罹患した。その2年前に「医師免許制」が作られて、祈祷師でも医術をしていたのを西洋医学国家試験合格者だけが医療可能と法制化し、漢方町医者は反感に満ちていた。コレラは3日で死ぬ「三日古呂利(コロリ)」と呼ばれて恐怖に陥れた。19年前も、安政の大獄の夏に江戸の死者だけで28万人、コレラ禍の記憶は生々しかった。沼野玄昌(げんしょう)は幕末に静岡県の士族の次男に生まれ、明治維新時は32歳。母は実家の父が天津小湊で代々の漢方医で日蓮の信徒、玄昌を仏門に入れたいと寺に預けたが嫌がって寺を逃げ出すので実家へ養子に出す。漢方医の跡取りとして育つ玄昌は西洋医学に惹かれて千葉県佐倉の順天堂医学校に入り、犬を解剖のあとで犬鍋にして食べるなど10年間学ぶ。小湊に帰ると、古い因習と日蓮聖地の寒村、そこに悪夢のコレラが襲ってきた。医者たちは夜逃げや居留守で診療から逃げたが、玄昌は夜中でも駆けつけて治療と石灰をまいて消毒するなど勇敢な行動なのに尊敬されなかった。

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