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新・農業経営者ルポ

勤勉さと懐の深さを持った500年続く農家

福岡県飯塚市の田畑の一角に、ぼた山を背にして「NSA21」と外壁に書かれた2階建ての納屋がある。その意味は「21世紀の新しい農業をつくろう」。いまから20年前にこれを建てた合屋洋一は、家族とともに勤勉さを持って農業経営に打ち込みながら、懐の深さを持って多くの人を受け入れ、後進の育成に当たってきた。そうした家風がどうしてでき上がっていったのか紹介したい。文・写真/窪田新之助

一時は24の役職を持つ

合屋と初めて出会ったのは2004年、前職の日本農業新聞に入社した翌月だった。同社は当時、10カ月という悠長な研修期間を用意していた。研修生は、初めの2週間の東京本社を除いては、地方の支所で過ごす。6人の同期はすぐに東京を後にして各支所に散り散りになった。着任して早々に待っていたのは、2週間にわたって1軒の農家に寝泊まりしながら、農作業をする「農業研修」。福岡市にある九州支所に配属された筆者を受け入れてくれたのが合屋家だった。
当時の合屋家には合屋の母と妻、長男、それから年齢では合屋の一回り上の「てっちゃん」がいた。このほか妹の手を借りながら、合屋は4haほどで水稲と野菜を作っていた。出荷先は今と変わらずコメは
JA、野菜は量販店やJAの産直市である。
筆者が滞在した間はタマネギとジャガイモなどの収穫に忙しかった。とりわけその香りとともに印象に残っているのはタマネギ。収穫して詰め込んだコンテナは納屋の2階にクレーンで持ち上げる。タマネギの香りが充満した2階にあるのは、支柱を横渡してつくったやぐら。複数個のタマネギを葉の部分できびって(結わえて)、横渡しの支柱にかけていくのだ。すべてかけ終えたら、1年分の出荷量になる。
筆者は小学生の時点でぎっくり腰をやっているほど腰が弱いうえに、慣れないこともあり、早朝から始まる毎日の農作業はしんどかった。夕方に作業を終えれば、紺色のTシャツの脇や胸の付近は汗で白くなる。それでも泣き言を言わずに付いていけたのは、合屋家がそろって黙々と働いていたことが大きい。筆者が寝泊まりする場を貸してもらったのは納屋の1階にある和室の個室。朝の集合時刻よりも少し早めに表に出ると、毎日、そこには合屋の姿があった。いつも一仕事を終えていたようだった。
もう一つ思い出すのは人の往来が絶えないこと。合屋はこの地域において農業だけではなく、社会の中核的な存在である。聞けば、福岡県農協青年部協議会委員長を務めたほか、町(市)議会議員や自分で建てた剣道館の館長など一時は24に及ぶ役職を持っていた。そんな合屋家には時に筆者のような泊まり客が訪れる。産学官問わずさまざまな組織から研修生を預けたいという依頼が絶えない。

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