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新・農業経営者ルポ

勤勉さと懐の深さを持った500年続く農家


筆者は研修を終えてからずっと、こうした合屋家の勤勉さと懐の深さが気になっていた。そこで久しぶりにじっくりと話を聞く機会をいただくことにした。
「いつでもいいばい。いつでも空けちょくけ」
合屋に電話で取材したい旨を伝えると、懐かしい筑豊弁が返ってきた。
訪ねたのは九州を台風が襲った7月中旬。車を停めて家に向かう途中の畑に合屋の姿を認めたので近づくと、「ちょうどよかった。いま仕事が終わったところ」。こちらに気を遣わせない気持ちに思わず頭が下がる。

自分のことより他人のため

取材をしてみて、恥ずかしながら今回初めて知ったのは、合屋家が20代目となる合屋洋一の代まで500年続く家ということだ。それなりに古いと思ってはいたが、まさか室町時代にまでさかのぼるとは……。大元の祖先は新羅国から来ているようで、室町時代にはこの土地の殿様だった。いずれも飯塚市史に記されている。
合屋家がそれからどのような経緯をたどったかは定かではない。いずれにせよ祖父・甚十郎の代には庄屋を束ねる大庄屋だった。甚十郎が生業にしていたのは主に農耕馬と牛の種付け。県内の畜産農家が日参した様子が甚十郎の日記に残っている。
戦前、家の前には日本一の売上を誇った飯塚競馬場があった。そこはいま合屋家が耕す農地になっており、家族の間ではそこをそのまま「競馬場」と呼ぶ。合屋家は毎日のように立ち寄る馬主らの接待で忙しかった。第二次世界大戦が始まると、この競馬場はつぶされて農地に変わった。
戦後、飯塚は炭鉱の町になる。石炭の掘り出しによって地盤が沈下して水たまりとなり、それがつながって「湖になっちょった。この辺りは『かんらく』って名前でよんじょったな」と合屋。
合屋の父・典生の時代になると、「湖」は農地として復旧される。典生は農機の販売業のほか、稲作と野菜作を本業とするようになった。農業のやり方は柔道黒帯という外見に似て「豪快」だったらしい。たとえば田植えになると、貸し切った数台のバスで100人を超える助っ人を連れてくる。一斉に田植えを済ませれば、助っ人とともに宗像大社近くの料亭に向かう。始まるのは大宴会だ。もちろん大赤字である。
典生が筑豊地方でいち早く作り始めたというイチゴでは、地区の全農家を巻き込んで共同経営に着手。合屋家の前にあった2haをすべてイチゴの畑にした。甚十郎の時代と同じように、家族とそれ以外との垣根がなかったようで、毎日欠かさず誰かが合屋家で飯を食い、多くは泊まっていった。いずれも典生が連れてくるのだった。

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