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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

いまどきの世界観に隔世の感あり


ミツビシSUVのカーナビを見ながらバンザイクリフを目指した。日本から先人たちのために小さなペットボトルを20個ほど持って来た。到着したそこには……日本人はいなかった。半島系と大陸系のツアー客のみ。バンザイクリフには各県の慰霊碑が手入れされて鎮座していた。
中央に置かれた慰霊碑に頭を下げると、ツアーで来たと思われる半島系の子供が土足で日本人の慰霊碑に上がって来るではないか。横を見ると30歳くらいの父親と目が合った。さすがにマズイと思ったのだろう。子供に話しかけ、慰霊碑から降ろさせた。再度頭を下げ、日本から持ってきた水をサイパンの日差しで乾ききった慰霊碑に捧げた。帰り際に、半島系の親に「カムサハムニダ」と言うと、父親はぺこりと頭を下げた。無駄な遺恨は残すまい!とは先人の教えだ。
その後、数カ所を巡った。サイパンの飛行場には北海道の形の“鎮魂の碑”があった。オホーツク紋別の部隊がこの地で全滅したのだ。なんで北国の部隊がサイパンで……。それも容赦ない戦争の現実なのか。
サイパンの宿の近くに戦争記念館があった。英語、日本語、中国語、朝鮮語のヘッドセットから聞こえてくるのは、「日本は資源がないから南方に進み、現地人を苦しめた!」という解説だ。ヘッドセットを返しに行くと、日本人の女性がいた。ご主人は元アメリカ海軍出身で、20年ほどこの地にいるそうだ。
さすがにいたたまれなくなり「同じ内容を各国語で発信しているんですよね?」と聞いてみた。「そうなんですよ、クレームは日本人からはないのですが、中国人がビックリして、日本人はよく黙っていられますねと言います」と教えてくれた。その日本人女性に「今晩、ご主人と喧嘩してみませんか、戦艦ワード、単語はwardです」と言って、屈辱の空間を後にした。
そこで買ってきたお土産は、パールハーバー・アタックの日の新聞だ。先月、親の家を片付けていたら終戦の日の新聞の原本が見つかった。アメリカ人と日本人の戦争観の違いだろうか。
上皇の誕生日12月23日に巣鴨プリズンで東条英機ら7名が絞首刑になった。本当にこの人たちは悪党であり、卑怯者で日本人の恥の象徴だったのだろうか? 私はすべての罪を背負った日本の繁栄の立役者だと思う。

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