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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

勝者のアメリカから学ぶことはまだ多くある

目の前に世界地図がある。多少色褪せた世界地図に当時の不思議な世界感が見え隠れする。この地図は1941年(昭和16年)2月に作られた物だ。2年ほど前に新橋のSL側の広場で古本屋の集まりがあり、3500円で購入した。

戦後賠償を求めたのはどの国か?

まずは驚愕の金額を見て頂きたい。
■イタリア(72年7月発効)
120万ドル 
■スイス (72年7月発効)
1225万フラン
■スペイン(57年1月発効)
550万ドル
■スウェーデン(58年5月発効)
725万スウェーデン・クラウン
■デンマーク(55年9月発効)
30万ポンド
■オーストリア(66年11月発効)
1万6700ポンド 
45年8月15日太平洋戦争で日本はポツダム宣言を受諾し、天皇が国民にお言葉を発した。当時の新聞ダイジェストを読むと、日本兵士が天皇の命令に背くことがないことを理解していた、8月30日にバターン号でマッカーサーが来ると、すぐさま横浜に向かったとある。その道中の画像も見たが、3万とも言われる日本の官憲が警備にあたり、マッカーサーの車列に背を向けることになった。この行為は天皇の場合と同じで決して不作法ではないとされるが、ケツを相手に見せる行為が正しいのだから、不思議でならない。
逸話では、マッカーサーが到着した翌朝の卵料理一個を出すのに、ホテルのシェフがどれだけ血眼になって探したのか、その卵が今では物価の優等生になっていることに、時の流れの恐ろしさを感じる。
まずは食べ物だ。つまびらかに覚えていないが、TVドラマで吉田茂がマッカーサーに「このままだと何千万人の日本人が路頭に迷い、餓死者が多数出て暴動が起きる。だから食料をよこせ」と迫った場面があった。マッカーサーはアメリカから砂糖、小麦等をタップリと運ぶが、結局は何千万の餓死からはかけ離れた莫大な量が運ばれた。マッカーサーは吉田茂に「なんだ日本人は餓死しないではないか、要求した穀物量はいい加減だったな」と言ったが、策士の吉田は「そんな正確な穀物量が分かっていたら、アメリカとは戦争はしなかった」と言ったとか言わなかったとか―。

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