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Economic eye

在野のエコノミスト 稲葉秀三 アカデミーに身を置かず国家社会に尽くす


そういう資料収集から、国民経済研究協会は戦後はじめての「工業生産指数」をつくり、戦後の経済復興計画の立案に役立たせた(生産指数IIPの作成はその後、商工省の統計調査局に引き継いだ)。
稲葉の一番大きな貢献は、吉田茂総理に提案した「石炭鉄鋼傾斜生産計画」であろう。敗戦直後はエネルギー供給の途絶から、生産活動が戦前の20分の1に低下していた。生産活動を復活させるには石炭が必要だが、石炭の増産には鉄鋼が必要であり、鉄鋼生産を増やすには石炭が必要だ。この二つの産業に資源と資金を優先的に配分するという「傾斜生産方式」の提案である(アイデアの発案者は稲葉であった)。
稲葉は戦争末期からの物資供給力調査の成果をもとに、46年夏、“7月危機説”を打ち出し、まず国内石炭を増産させる以外に手段がないことを各方面に説いて回った。たまたま企画院事件の仲間、和田博雄氏が吉田総理の下で農林大臣に就任していたので、和田氏から総理に説明してもらい、それが結果的に「石炭鉄鋼傾斜生産計画」のための委員会(委員長有沢広巳)につながった(注1)。この傾斜生産方式が敗戦後の経済復興の起爆剤になったことは多くの人が肯定するところであろう。
稲葉はその後、強大な権限を持つスーパー官庁・経済安定本部(経済企画庁の前身)の官房次長となり(47年6月、和田長官、都留重人副長官)、復興の足掛かりをつかむ取り組みをした。48年5月には初代経済復興計画委員会事務局長に就任し、戦前生活水準へ復帰するために、どのような経済バランスと年々の中間目標が必要になるかを考えたが、片山内閣、芦田内閣から吉田内閣へと変遷する中で、復興計画は陽の目を見なかった。
稲葉は復興期から高度成長期にかけて、政府のエネルギー審議会会長、情報審議会会長など、さらに産経新聞社長も務めたが、その間も、国民経済研究協会の会長をつづけた。同協会は産官学が協力し、理事として有沢広巳、東畑精一、中山伊知郎、中山素平(興銀)、円城寺次郎(日経新聞)等、きら星の如く名を連ねた。
稲葉は幾多の政策提言を行ない社会貢献したが、アカデミーには身を置かず、象牙の塔的あり方も好まなかった。自らを「在野のエコノミスト」と称した。国民経済研究協会のモットーも“実証的経済研究”であり、現実に学べということだった。「学者ぶるのだけはやめよ」とまで言っている(注2)。
私の印象は、一口で言えば「高潔」な人物ということだった。私にとって一番の薫陶は「在野のエコノミスト」であった。私は人生の後半、道に迷って、一時大学教授になったが、現実に学べという精神だけは今も保っている。稲葉さんの影響であろう。

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