ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

人生・農業リセット再出発

ジョン万次郎


萬次郎は、黒船より12年前の1841年正月5日、寒風に揺れる8mの5人乗り木造漁船に乗り組んでいた(当時14歳)。9歳で父親が死んだアバラ家には病弱の母と酒浸りで働かない兄がいて、漁を手伝う仕事で生き延びていた。萬次郎たちの小舟は不漁で3日間も洋上をさまよった。アジの大漁と格闘している時に大嵐に遭って舵をもぎ取られた小舟は過酷な漂流地獄に陥る。生魚で水分と食をつないでいる8日目の1月13日、遠くに島影が見えて、5人は気が狂ったように手で波をかき分けて島にこぎ寄せた。船は岸壁に叩きつけられて海に消え、血だらけで岩によじ登って生き延びる。絶望の5カ月が経ったある日、水平線に帆船が現れた。狂ったように脱いだ着物を大きく振って叫び続けた。アメリカの捕鯨船で初めて見る異様な人種に震え上がった。やがて身振り手振りで通じるようになる。船名が「ジョン・ハウランド号」だから、萬次郎はジョン・マンジロ~、「ジョンマン」と呼ばれる。4人をハワイで降ろした船長はジョンマンだけを養子に連れ帰る。黒船の10年前に鯨油満載の捕鯨船は3年ぶりにマサチューセッツに帰港した。南北戦争直前の黒人奴隷社会では有色人種のジョンマンも差別を受けながらも猛烈に勉強して成績が常にトップだった。船長は航海術や造船技術を学ばせて一等航海士に育てたが、母が待つ故郷に帰りたいと夢を見た。石油が出て鯨油需要が激減、捕鯨船も衰退した頃、カルフォルニアのゴールドラッシュの町へ人々は故郷を捨てて詰めかけた。ジョンマンも日本まで船に乗せてもらう金が必要だったので、金鉱を掘り当てて金策に成功する。ハワイに向かう蒸気船に一等航海士として乗船し、筆之丞、五右衛門、寅右衛門と再会したが、重助は病死していた。捕鯨帆船の「サラ・ボイド号」の船長に、沖縄あたりで降ろしてくれるように懇願する。寅右衛門は日本に帰りたくないと拒否し、1851年に3人は出帆した。
沖縄では村役人に縛り上げられて取り調べが始まった。土佐沖で遭難してから10年間、日本語から隔絶されて24歳になっていた言葉は英語だった。薩摩藩主は外国文化や兵器を探求している島津斉彬。アメリカ最新情報を聞くたびに驚いた。漂流民帰国は死罪だったから斉彬との出逢いは幸運だった。斉彬は、アメリカで一番印象に残ったことは何だ?と聞くと、人間に身分の高い低いはなく、大統領さえ選挙で選ばれ、悪いことをすれば辞めさせることもできます!と返ってくる。1852年の夏、11年半ぶりに故郷の母親と夢のような再会が実現。土佐藩主・山内容堂から武士に世界情勢を教えるようにと命じられ、サムライ格の「中濱萬次郎」を名乗らせ、後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎が誕生する。勝海舟校長の軍艦操練所が神戸にできて、アメリカ一等航海士は引く手あまたになる。開国条約調印のため、「咸臨丸」で渡米することになり、勝海舟船長、ジョン万次郎も米国作法指導者で乗船、福沢諭吉も同乗する。一行がアメリカの土産物を買いあさる中、ジョン万次郎と福沢諭吉は、WEBSTER辞書を購入し、諭吉は慶應義塾大学を創設する。維新から30年後の1898年、71歳で波乱万丈の天寿を全う、東京の雑司ヶ谷霊園に眠る。

関連記事

powered by weblio