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世界農業遺産を訪ねて

梅産業のイノベーションが持続的農業と生態系を保全 和歌山 みなべ・田辺の梅システム

数百年以上続いた持続可能な農業を実践する地域が「世界農業遺産」に認定されている(FAO制度)。いかにしてサステナブルな農業になったか。その秘訣を探りたい。 紀伊半島のみなべ・田辺地域は、梅の栽培が盛んで、豊かな農村に発展しているが、梅の新品種栽培・加工の“技術革新”が高品質な「南高梅」を生み、400年も持続可能な農業をもたらしている。

1 梅と備長炭の日本一の産地

紀伊半島の南西部に位置する、みなべ町は梅の里である。和歌山県の梅収穫量は全国シェア65%(みなべ町だけで30%)に達する。みなべ町(人口約1万2000人)は全国一、二を争う梅産地だ。町の就業者の7割は梅産業(加工等を含む)に就いている。もう一つの産業「備長炭」も全国一である。炭焼き職人による山(薪炭林)の管理が、里山(梅林)を健全な状態に保っている。

南高梅の発見
実が大きく、美しい紅のかかる「南高梅(なんこううめ)」は、みなべ町が発祥の地である。南高梅は皮が薄くて柔らかく、果肉は厚く、梅干し用梅の最高級品として評価されている。この南高梅の競争力が梅産地としてのみなべ町を発展に導いた。
みなべ町は伝統食品、伝統産業(梅干しと備長炭)で栄えている。今日のみなべ町の基礎が出来上がったのは400年前、梅栽培が盛んになった江戸時代初めである。
17世紀、紀州田辺藩は以前からあった「やぶ梅」に着目し、米の育たないやせ地や山の斜面を免税地にして年貢を軽減し、梅栽培を広げた。明治時代には生糸が盛んになり、梅は桑に植え替えられ、梅林は他地区にシフトしたこともある。
1901年(明治34)、内中源蔵翁が山4haを開墾、梅加工場を設け、梅の生産から加工まで一貫した商品化に成功。02年(明治35)、高田貞楠が粒が大きく豊産で美しい紅をかける優良種を1本発見した。高田梅(のちの南高梅)である。これは門外不出であったが、31年(昭6)、小山貞一が接ぎ木育苗で増殖させ、地域に普及した。
50年(昭25)、郷内で栽培されていた114種類の梅の中から、5年の歳月を費やして最優良品種の選抜を実施、高田梅ほか6種が優良母樹に選定され、54年、母樹選定調査に深くかかわった南部(みなべ)高校園芸科の努力に敬意を表し、同校の愛称に因んで、高田梅を「南高」と命名した(種苗名称登録は65年)。こうした前史のあと、産業として本格的に発展したのは60年代以降である。
直径4~5cmの大粒で肉厚、ジューシーな南高梅は、南部郷で長い年月の研究の末にたどりついた最高級品種で、紀州みなべの梅干しの原料となっている。みなべ町では梅の8割を占め、梅のトップブランドとして全国にその名を馳せている。

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