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新・農業経営者ルポ

子供に導かれ、福祉農園という出会いと学びの場ができた

 その多くは単位を取るために先生に付いてきたののだろう。また、向学心の高い河合の友人は、農園での作物栽培の技術レベルを見て、
「ここには学ぶべきものはない」
と、それ以来、農園に顔を出すことはなかった。しかし、河合は毎週、多摩にある学校の寮から時間を掛けてここに来る。学生スタッフの中心的メンバーの一人である。

 栽培の不具合を調べるために学校に土壌サンプルを持ち帰り、簡易土壌分析をしてみるなど、農業専攻学生ならではの役割も果す。しかし、河合は、友人が求めた「実利」ではなく、他の学生スタッフやシニアボランティアたちとの出会い、あるいは福祉農園という活動そのものの中から、これからの農業経営者として持つべき本物の財産を得るだろう。


必要とされてれば得る利益は出るのだ

 この障害者と健常者がともに学びあう福祉農園は、猪瀬良一が、良平という自閉症児を育てる葛藤と喜びを通して思い立ち、ボランティアたちとともに創り上げてきたものだ。まさに、自閉症児である「子供に導かれて……。」である。すでに、猪瀬の理想は半ば実現したかに見える。

 でも、障害者が農業を通して自立していくという福祉農園の最終テーマは実現できていない。ましてや、猪瀬やボランティアたちはそこから収入を得ているわけでもない。それで良いのだろうか? それではこの事業の永続性はないではないか。

 繰り返しになるが、見沼田んぼ福祉農園は、現代という過剰の病理の社会であればこそ、現代に必要な生きるための癒し、学びの場を提供する。それは、障害者だけでなく誰にとっても必要とされる場なのである。であればこその風の学校でもあるのだ。

 猪瀬を含めて、そこでボランティアとして働く人々は、労働に対する金銭的対価が得られなかったとしても「損だ」とは感じないだろう。猪瀬を除けば、彼らにとってここに来ることは余暇であり、それ以上の満足を得ているからだ。

 しかし、障害者たちはどうだ。そもそも彼らがいればこそこの事業は始まっている。彼らの職業的自立を実現するためにも、この時代が必要とされる場を有償のサービスとして事業化すべきと考えても良いのではないか。その費用は必ずしも来園者に負担させなくても良い。儲けるためにというより、農園の自立した永続性のために利益を出さねばならないし、出すべきなのだ。

 たとえば、フリーペーパーという広告だけで成立するメディアもあるではないか。福祉農園のウェブサイトやイベントは、それは学生ボランティアの次の仕事、次の学びのテーマになるではないか。それで稼いだお金を前にして、猪瀬に、

「馬鹿でも俺が大将だ、ガハハハ」と彼に乾杯をさせてやる日を作ってやれよ、若者たち!(昆吉則)


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