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【世界農業遺産を訪ねて】
宮城・大崎耕土の巧みな水管理 巧みな水管理が肥沃な耕土を創った 救世主は牛、産直、生物多様性
- 評論家 叶芳和
- 第4回 2021年09月21日
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1 瑞穂の国の水利の歴史
宮城県大崎市の田尻地区は、青々とした水田が広がる。風に揺れた田んぼはまさに「青田波」だ。しかも、遠くまで広がる。じつに気持ちいい風景である(7月末訪問)。
大崎市(人口13万人)は、農業産出額の50%はコメ、経営耕地面積の90%は水田、農業経営体数の95%は水稲を栽培している。水田モノカルチャーといってよい。宮城県を代表するコメどころである。
このような水田農業地帯が出来上がったのは約400年前、伊達政宗以来の水利事業の成果である。この大崎地域は江合(えあい)川と鳴瀬(なるせ)川の流域に広がる野谷地や湿地を利用した水田地帯であるが、地形が原因で洪水や渇水に悩まされてきた。この問題を解決するため、江戸時代以来、水資源の分配や調整のため人智を尽くし、水路網の整備、「ため池」設置や水を分け合う「番水」の仕組みなど、様々な工夫がなされてきた。
日本の水利の歴史は古い。稲は縄文時代に伝来し、弥生時代には広く全国で水稲農耕が主流になっていた。当時から、水源から水路を引いて灌漑を行なう「分水」の技術があった。また、万葉集には、堰や柵しがらみ(木杭を打ち込み木や竹で編んだ柵)を造り、田畑への引水を公平に調節管理していた様子が窺える歌がある。
稲作が盛んになるに伴い、「水争い」が起きた。その争いを解決するため、渇水時に地区を分け順番を決めて時間的に配分する仕組み「番水」が工夫された。弘法大師(9世紀)ゆかりの「満濃池」がある讃岐平野には「ため池」がたくさんあったが、そこでも番水の仕組みが行なわれている。
渇水が頻繁な地域では、線香の燃える時間により引水を調節した「線香番水」という仕組みもあった。室町時代には、大和興福寺領内の河川で村と村の番水が行なわれた記録がある。古い時代の分水、番水の遺跡が今日も残っている(奈良県御所市の「番水時計」の遺跡等)。こうした水利技術の発展に伴い、水田農業地帯が発展し、「瑞穂の国」が出来上がった(注1)。
「瑞穂の国」は、稲の伝来だけではなく、「水利」という人の知恵があって初めて成り立ったのである(水利の知恵がどこまで日本固有のものか、中国・韓国からの輸入であるかは浅学寡聞)。
注1:眞下正樹「万葉の風土心から学ぶ自然資源の治め方」大日本山林会『山林』第1647号(2021年8月)及び農業農村整備情報総合センターHP水土の礎「水土の成り立ち」参照。
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叶芳和 カノウヨシカズ
評論家
1943年、鹿児島県奄美大島生まれ。一橋大学大学院経済学研究科 博士課程修了。元・財団法人国民経済研究協会理事長。拓殖大学 国際開発学部教授、帝京平成大学現代ライフ学部教授を経て2012年から現職。主な著書は『農業・先進国型産業論』(日本経済新聞社1982年)、『赤い資本主義・中国』(東洋経済新報社1993年)、『走るアジア送れる日本』(日本評論社2003年)など。
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