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新・農業経営者ルポ

有機農家の専門農協を作りたい

「有機農家のネットワークを作って、JAのように組織化したい」。こう考えて行動を起こした若手農家がいる。愛媛県西条市で、コメを中心に自然栽培を手がける(株)維里代表取締役の首藤元嘉(44)だ。有機農家の専門農協を作り、生産のノウハウを共有し、機械の共同利用や共同の集荷、販売を進め、有機農産物をより手に取りやすい価格で売りたいと意気込んでいた。 文・写真/山口亮子、写真提供/(株)維里

「なぜ報われないんだ」が原点

「地元の周桑地区は三反百姓が多くて、農業ではなかなか儲からない。うちは5haで、ほかの地域に行けば吹けば飛ぶような面積でしょうが、ここでは大きいねと言われる部類ですよ」
自宅の母屋の一角にある(株)維里の事務所で、首藤がこう切り出した。着ている黒のTシャツには、同社のブランドである「土と暮らす」のロゴが描かれている。障子戸に囲まれた部屋の周りには廊下が巡らせてあって、夏の暑い盛りに風通しを良くする愛媛の農家には典型的なつくりだ。首藤の家は代々続く農家で、その12代目として生まれた。
就農前は、慣行栽培で全量をJAに出荷する普通の農家だった。が、周囲の反対を押し切って自然栽培に転換し、今では5haでコメを中心に、サトイモやブロッコリーなどを自然栽培する。
父の孟弘(たけひろ)は専業農家だった。朝から晩までは働きづめに働いて、それでも生活に余裕はなかった。農業で生活に苦労するのは父に限ったことではなく、周囲の大人たちは「農業なんか」とよくこぼしていた。
「なんでこんなに頑張ってるのに、報われんのだ」
子ども心にこう感じた首藤にとって、「農業は職業の選択肢に入ってこない」ものだった。そうではありながら、周囲の大人たちは孟弘に「後継ぎができて良かったな」とよく声を掛けていた。
「農家の長男に生まれたら、農業を継いで当たり前ということが、ある意味呪いのような感じで付いて回るんですよ。そのはざまで、僕はモラトリアムの期間が割と長かったのかな。農業以外は何をしとっても、地に足が付いていない感じがしていました」
飲食店や給食事業所に勤めたり、信楽焼の窯元や京都の陶芸の学校で学んだりし、一時は自分で陶器を作る窯を持ったこともある。食や土と関係のある、ある意味農業と地続きの世界で、自分の道を探る日々が続いた。

周りの反対を押し切り自然農法に

転機になったのは、28歳で一冊の本と出会ったことだ。福岡正信の『自然農法 わら一本の革命』。不耕起・無肥料・無農薬・無除草の自然農法を追求した福岡の思想がまとめられていた。慣行栽培でJAに全量出荷して苦労する親の姿を見ていただけに、別の形を求めていた首藤は「こういう農業があるならやってみたい」と感じた。しかし、相談した孟弘には真っ向から反対された。
「そんなことできるわけがあるかと。無農薬もできるわけないし、まして無肥料なんかと言われて。田んぼの1枚も貸して挑戦させてくれと言うたんやけど、そんなの、やらさんと」

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