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スマート・テロワールの実践者たち

大津波でも流せない テロワールと人の底力 復興最前線の挑戦者たち(岩手県陸前高田市)


3市のうち、北の大船渡と南の気仙沼は切り込んだ湾に面する港町で、前者は太平洋セメントなどの立地する工業港、後者はかつては遠洋漁業の基地、その後は沖合漁業の拠点として発展した。他方で気仙地方では最も大きな気仙川の河口の、三陸では最大の平野部にある高田は、名前に「田」が付いていること自体が示すように、農業と不可分の町である。周辺の農産物と、気仙川上流の山林から出荷される木材の、集散地として栄えるミニ商都だったのだ。大らかで商売熱心な気風が、この町を特徴づけている。
林産資源や商売の繁栄を背景に、「気仙大工」と呼ばれる職人集団も、江戸時代から形成された。彼らは冬場は各地の工事に出向き、土産を持って帰郷するというサイクルを繰り返してきた。

陸前高田の被災と復興ビジョン

以下は、震災後に復興の志を持って当地にUターンし、現在は市役所の政策推進室係長として、「SDGs未来都市」を推進している菅野隼氏のプレゼンから情報をピックアップしてお伝えする。
気仙地方を含む三陸は、沖合の日本海溝付近で起きる地震に伴う津波の来襲を、繰り返し受けてきた。1886年の明治の大津波(死者行方不明2万1000人)や、1933年の昭和の大津波(死者行方不明3000人)クラスのものがレベル1(L1)。さらに波高が高く被害の範囲の大きい2011年の東日本大震災クラスがレベル2(L2)とされる。L2の津波は、江戸初期の1611年の慶長大津波、平安時代の869年の大津波を含め、過去3500年に少なくとも7回発生していることが、三陸各地での堆積物の研究から判明している。
陸前高田の場合、400年前に起きたL2の、慶長津波の被害が恐らく大きかったのだろう、その後に植えられ始めた松原が天然の防潮堤となって、L1だった明治や昭和の大津波からは、見事に町を守った。
しかし400年ぶりのL2である東日本大震災は、東西2km以上、南北も700mほどの厚みの中に7万本の黒松の生えていた高田松原を、たった1本を残して消し去った。そればかりか、建物の4階以下を水没させ、市街地の97%を洗い流したのである。筆者はその2カ月後にレンタカーを運転して訪れたのだが、鉄道線路も駅前商店街も見渡す限り更地か瓦礫の山となり、どこがどこだったかまったくわからなくなった光景に、深く衝撃を受けた。
市民の死者行方不明者は1761人と、人口の7%余りになった。しかし、あれだけの破壊を受けながら、93%弱の命は守られたという事実には、感慨を禁じ得ない。当日は雪模様だったが、5階以上の高さの数カ所の建物に逃げ込み、あるいは市街北側にある高台に走り、老人や子どもを助け上げ、市民のほとんどが生き延びたのである。

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