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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

日本人は戦後に何を学んだのか

3月15日に書いている。 反撃だ! 日本を焦土にしろ!敵は捕虜にするな。線路で遊んでいる子供も機銃掃射して野垂れ死にさせろ(義父の友人の実話)。徹底的に焼き尽くせ! じゅうたん爆撃だ! 軍事施設だけではない、イングリッシュもできない極東アジアの異教徒日本人を無差別に限りを尽くして殺戮実行だ!
1945年3月10日に東京の木造住宅密集地区を集中して燃料が入っている焼夷弾と呼ばれ、ベトナム戦争ではナパーム弾と呼ばれるものが莫大な量投下され10万人以上の住民が亡くなった。その結果に何の道義上の責任を取る必要もないし、殺戮の結果に連合国は大喜びだ。
まだ不十分だ。2種類の違うタイプの原子爆弾でアメリカ人の捕虜がいる広島、クリスチャンが多くいる長崎を焼き尽くせ! 戦争が終わったら女を用意させろ!
なぜ、戦争とは言え、無垢の一般国民まで殺す必要があったのか。やっと、当時のアメリカ人、アメリカ軍の感情が理解できる。いま世界の多くの市民はZマークを付けた市民が虐殺され、何万発の爆弾で町全体が木っ端みじんになったとしても、何の疑問も感じないし、それどころか世界中から歓喜の声を上げることになるだろう。
我々日本人は戦後に何を学んだのか、美しき大和魂にも三分の魂が宿り、心は汚れなかったとでも言うのか。勝てば官軍、負ければ賊軍、アメリカ的には勝者はすべてを取り、敗者はすべてを失う。これは歴史の事実で誰もその結果を変えない。ここに歴史の免罪符を得たのだから、思慮深いすべての神もロシアに罰を与えることを許してくれるだろう。正しいかどうか現時点で決断する必要はない。将来のインチキ歴史教科書で記述できればいいのだ。
日本とロシアとの関わりは明治に入る十数年前に日露通商条約が結ばれ、その後、紆余曲折があり国境が画定した。それがいまの日本政府が主張する北方領土の原点になる。
私は2010年8月24日に、キーウ(ウクライナ読み)から夜行寝台でクリミア半島を目指した。翌25日には、教科書にも出てくる「ヤルタ会議」が行なわれた場所に向かった。皆さんの気持ちを代弁してスターリンの鼻の穴に指を突っこんで差し上げた。
1945年2月に行なわれたヤルタ会議では当時の北方領土と樺太の南部をソ連が占領するとチャーチル、ルーズベルトと約束した。そうです、アメリカも了解した会議だと認識するべきなのだ。その話が事実であるならば、もう少し確認するべき事柄がある。
いまでも日本政府は「返せ、北方領土」と言う。このことは広く国民に周知されている。では西銘恒三郎(にしめこうさぶろう)という方をご存知だろうか。沖縄以外で知名度は高くないだろう。この方は内閣府特命担当大臣(沖縄および北方対策)だ。
何を言いたいのか。日本政府は表向きアメリカ批判ができない……ので、「返せ、北方領土」と発信する言葉は「お前のせいでこうなったんだよ!」の裏返しになるということだ。アメリカも表向き、日本政府さんそうですね、って言うよね。

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