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人生・農業リセット再出発

林学・事始め、本多静六

東京・明治神宮の森は表参道の鳥居をくぐれば樹海が代々木駅まで続く。その樹木1,000本を伐採してのラグビー場新設に都知事が許可を出した。22万坪もある広大な神域は肥後藩邸や彦根藩下屋敷だったのを、明治天皇祭神宮として設立された。広葉樹林はすべて全国から献木の人工植林、勤労奉仕で造苑された森だ。
明治神宮や日比谷公園、偕楽園など全国有名公園造りを明治時代に手掛けたドイツで博士号を取得した林学者がいた。花崗岩の六甲山系は風化した土砂が洪水になって樹木は育たず、疫病をもたらしたが、ここも彼の植林で救われて今の神戸がある。本多静六は、明治維新2年前1866に埼玉県久喜市の25戸の村の農家、折原家8人兄弟に生まれる。父親が40歳で急死して借金を抱えて赤貧に陥り、草刈や馬糞拾いで家計を助け、14歳から17歳まで半年だけ東京の学校に通い、農繁期には帰省して農作業を手伝った。東京・西ヶ原に官立山林学校が開校して先生から勧められて受験し、50名中50番目で合格する。数学など落第点を重ねるが、猛勉強して首席に上り詰める。上野の森で将軍慶喜の幕臣として官軍と最後まで戦った「彰義隊」隊長の本多晋(すすむ)は、一人娘の詮子(せんこ)の婿として首席卒業の静六を選ぶ。詮子は官立竹橋女学校を首席卒業、17歳で海軍医学校に入学して24歳で日本4番目の女医になった才媛。6畳間に数人の貧乏書生から港区芝公園にある大名屋敷の御曹司になった静六、間もなくドイツ留学へと道が開く。ミュンヘン大学で勉学に勤しむ中、本多家から“銀行破産で預金が無になり送金を止める”と知らせが届く。手持ち資金が底をつく前に博士号を取得して帰国しなくてはと、3時間睡眠で超人的勉強を続け、教授が努力を認めて博士号受験を許可する。失敗したら切腹する覚悟で最終試験に臨み奇跡的に合格! 静六は東京大学の林学助教授に25歳の若さで就任した。

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