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新・農業経営者ルポ

離島でメシが食えれば本当のプロ

府県での馬鈴薯の生産といえば、低効率の問題が付いて回る。ただ、物流からすれば、北海道より地の利があるケースが多い。その府県でも離島となれば話が変わってくる。沖縄本島に近い鹿児島県の沖永良部島(和泊)は、馬鈴薯の野菜指定産地の最南区域として知られる。当地で平均20aの圃場を150筆も抱えながら、なんと36haで馬鈴薯を単作する男がいる。皆村正樹その人は、持ち前のバイタリティーで課題の解決に努め、離島でメシが食える経営を形作ってきた。困難に立ち向かう姿は、地域に関係なく、いかなる生産者に対しても示唆に富んでいる。(※初出『ポテカル』2023年2月号、一部改変して掲載)文・写真/永井佳史、写真/株式会社皆村農園
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仁王立ち

「男前に撮ってくださいね」
これまで何百人もの人にカメラのレンズを向けてきたが、こうした自発的な言葉を聞いた記憶がない。ニューホランドとクボタのトラクターの前輪に両腕をかけ、凛とした表情からは貫禄を感じる。
写真には入っていないが、サンダル履きの足元も気にしていた。
「靴を履いてきたほうがよかったですかね? やる気ねぇみたいな」
取材はおおむね済ませた段階であり、単なる格好つけでないことはわかっていた。記事が掲載されれば不特定多数の人の目に触れる。その人々に自分がどう映るのかまで意識してのことだったのだろう。
鹿児島県の離島である沖永良部島の農家に生まれた皆村正樹(39)は、地元の高校卒業後に実家で就農した。200人いた同級生で島に残ったのは5人だったという。いまでこそUターン組は5割に上るが、彼はわずか2%の道を選んだ。その選択に父である博幸は「申し訳なさを感じた」と当時を振り返る。
1989年に馬鈴薯の生産を1haから始めた博幸は、1996年に主に生食用でカルビーポテトとの契約栽培に乗り出す。1998年にはそれまで手がけていたサトイモや切り花を取りやめ、馬鈴薯の単作農家となった。正樹が就農するのはそれから4年後の2002年のことだ。ゴムクローラー型の小型自走式収穫機「ポテカルゴ」(ニプロ製)の導入もその年であることから、手間のかかる作業体系だったことは容易に想像がつく。ゆえに「申し訳ない」と発したのだろう。
ところが、当の本人は小さいころから農業に夢や希望を抱いていたようだ。島の図書館に所蔵されている、小学生時分の正樹の作文にはこう記されていた。
「将来じゃが芋農家になる」
その後、標準的な馬鈴薯農家ではなく、一期作で36haという、主産地の北海道でもまずあり得ない規模の経営者となるのだった。

気になったら物怖じせず本人へ直接電話

筆者が正樹を認識したのは2018年のことになる。「グラウンド ペチカ」(デストロイヤー)や「タワラマゼラン」などの馬鈴薯を突然変異育種法で育成した俵正彦の葬儀でのことだった。祭壇に飾られた供花の札名を見ていたところ、「皆村正樹」とあったのだ。どこかで見覚えがあると思いつつ、帰京して小誌の発送先リストを確認すると、やはりその名が存在した。小社が編集する馬鈴薯専門誌『ポテカル』の読者でもあった。

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