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土門「辛」聞

EU内の地域文化が示す存在感 またまたヨーロッパの旅へ

水田活用問題のようなハードなテーマを扱うと、なぜかその翌月は脱力感が残る。取材と執筆に全力投球した後遺症(笑)かもしれない。今月は、息抜きの話題にした。大好きなヨーロッパ旅行記のようなものを取り上げてみる。
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半世紀前 初めてのヨーロッパ旅行

初めてヨーロッパに旅したのは、学生時代の1969年のことだから半世紀以上前のこと。AIESEC(アイセック、国際経済商学学生協会)主催の海外インターンシップに参加するためだった。航空運賃は鮮明に覚えている。7月のハイシーズン出発の往復で19万8000円、燃油・サーチャージはまだなかった。
当時、男子大卒初任給(月額)は3万1200円。いまの貨幣価値に換算すると、21年度大卒初任給が22万5400円なので、6.3倍分、100万円以上の航空運賃ということなる。旅行費用は、2年ぐらいアルバイトで稼いで捻出した。
羽田空港からの搭乗機は、日本航空ダグラスDC-8だった。当時、日本からヨーロッパに向かうには北極圏ルートを飛行する。米ソ冷戦時代が続いていたので、旧ソ連がシベリア上空を開放していなかったからだ。後で知ったことだが、コクピットにはサバイバル銃が常備されていたという。ハイジャック対策ではなく不時着に備えてものだった。不時着すればホッキョクグマに乗客が襲われるリスクに備えてのものだ。
搭乗機は、給油のため米国アンカレッジ空港でストップ・オーバーする。すでにそのころ空港内には日本人乗客目当ての立ち食いのうどん屋が大型免税店の一画にあった。経営者は韓国の方だった。値段も覚えている。1杯10ドルもした。1ドル360円なので3600円。ぼったくりに近い。貧乏旅行の身には手が出る金額ではなかった。
当時、ドイツのゲートウェイ空港は、北部のハンブルグ空港だった。ヨーロッパ屈指の商業港があるので日本から多くの企業が拠点を置いていた。その関係で利用客が多かったようだ。フランクフルト空港は、国際的なハブ空港を目指して大がかりな空港整備の最中で、ゲートウェイ空港になるのは、新しいターミナルが完成した1972年のことだった。

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