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「観光バスで来るような大規模農園はコロナ禍で苦戦を強いられたと聞きますが、うちはむしろ、来場者が増えたくらいでした。遠出ができない代わりに、近場でイチゴ狩りでもするか。そんな感じのお客様が多かったです」
元々はコメやタバコなどの複合経営をしていた祖父が、1955年に水稲の裏作として組み立て式ハウスで手がけたのがイチゴ栽培の始まりだった。それをきっかけに富士宮でイチゴ栽培が広がり、70年代には固定式のビニールハウスでの栽培に移った。祖父はイチゴ栽培の先駆者として富士宮農協に苺部会も立ち上げたが、孫に当たる佐野は農協から脱退し、個人での直売を選択した。祖父にも父にも申し訳ない気持ちでいっぱいだったというが、やむにやまれぬ選択だった。
こんな組合、辞めてやる!
それは佐野が30歳を前にしたころだ。
「このままじゃ、家族総倒れだ」
農協に出荷したイチゴの売上を見ては、そう頭を抱える日々だった。
この時期からイチゴの価格が急に下がり始めた。それまでは数量を出せばそれなりに利益が出ていたが、出荷しても出荷しても手元にお金が残らない。なぜ価格が下がっているのか、農協からは何の説明もなく、わけもわからず、農協の売価を受け入れるしかなかった。利益を上げようと出荷量を多くしたところ、単価がさらに下がり、あぜんとしてしまったという。
「家族総出で朝5時ごろに起きて深夜まで、収穫、パック詰め、出荷の繰り返し。睡眠時間を削って働いても、忙しくなるだけでまったく儲からない。そうなると家族もだんだん疲弊し、言い争いが絶えなくなり、最悪でした。何のために働いているのか。もしかしたら、この考え方が間違っているのかもしれない。もっと高く売る方法があるのではないかと思うようになりました」
佐野はいくつかのアイデアを思いついた。その一つが仲間と共に直売スタイルで販売し、組合の売上を上げていくことだった。まだ今のように直売所が多くない時代である。農協の支所にイチゴや農産物を置くコーナーを作り、相場より少し高く売れば利益が出るのではないかと考えた。
賛同を得るために事前に根回しし、2007年度の苺部会総会の場で、直売の提案をしようと決めた。ところが、先回りするかのように役員から「余計なことを言うなよ」と釘を刺されてしまった。総会後の食事会に間に合うよう早く終わらせたい。新しい提案などされたら厄介だ。だから、「お前は黙っていろよ」と言われたのだという。悶々とした気持ちで総会を過ごしたが、どうしても我慢ならなかった。
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佐野真史 サノマサフミ
富丘佐野農園(株)
代表取締役
1975年、静岡県富士宮市生まれ。子どものころから剣道に没頭し、高校時代は国体に出場するほどの剣士だった。静岡県立農林短期大学校(現・同農林環境専門職大学/同農林環境専門職大学短期大学部)を卒業後、21歳で親元就農、26歳で結婚。2008年、直売所「れっどぱーる」オープン。2015年、富丘佐野農園(株)として法人化した。
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