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新・農業経営者ルポ

「出過ぎた杭は打たれない」でいちごの可能性を積極果敢に追求

古くは修験道の霊山寺、そして南北朝時代には霊山城のあった霊山。そんな長い歴史を持つ山の麓にある福島県伊達市霊山町で、明治時代から農業を営んできた、大橋家。今回登場する大橋松太郎は、その6代目にあたる。父親が始めたいちご農家の後を継ぐことを決意した男は、それまでの農協への出荷オンリーだった運営スタイルに危機感を抱き、「出過ぎた杭は打たれない」という心情のもと、法人化、直販、BtoB、6次化商品の開発などにまい進していった。その最中には、東日本大震災による原発事故がもたらした風評被害に押しつぶされそうになったこともある。その生きざまを追った。 文・写真/永峰英太郎
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父に後押しされ、いちご農家へ

松葉園への取材日は6月2日だった。いちごの収穫時期は11~5月。繁忙期の時期をずらすために、その日に設定したのであった。
当日、取材時間よりも早めに到着した筆者は、松葉園の近くにある「道の駅 伊達の郷 りょうぜん」に立ち寄った。するとそこには、パック詰めされた真っ赤ないちごが多数販売されており、その中には、松葉園のものも含まれていた。それだけではなく、いちごのスイーツも多く陳列されていた。
代表の大橋松太郎に、そのことを話すと、「日本一の生産量を誇る栃木県などは5月で収穫が終わるため、福島県では6月中旬まで収穫するようにしているところも多いんですよ」と説明してくれた。
いちご栽培を始めたのは、父・松夫氏だ。
「僕が生まれた年――今から39年前(1984年)にスタートしたと聞いています。当初は、桃やキュウリ、ニラなどと並行しながらいちご栽培を行っていて、徐々に、その比率が増えていったそうです。単価が安定していたみたいですよ、いちごは」
大橋は幼少期から「長男である自分は、後継ぎになる」とぼんやりと考えていた。
「祖父母には『松太郎が継いでくれるよね』と言われていましたし、高校時代、進路選択に悩んでいたとき、母から『お父さんはあんたと一緒にいちごを作りたいんだよ』と打ち明けられたんです。その言葉で決心が付き、福島県農業総合センター農業短期大学校に進学し、農業の道を歩み始めました」

栃木での住み込み修行で最先端の技術を吸収

松葉園のいちごの品種は、ずっと「とちおとめ」である。伊達市のほかのいちご農家の多くも、この品種を採用している。大橋は大学卒業後、とちおとめの一大産地である栃木県のいちご農家に住み込みで修業に入った。

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