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新・農業経営者ルポ

雪国・秋田で挑み続ける野菜の周年栽培と周年出荷


2年目は“オヤジの通帳とハンコを勝手に持ち出して”資金を借り、約300坪のビニールハウスを建て、本格的にホウレンソウの周年栽培を始めた。自分のビニールハウスを持ったことで、栽培は俄然おもしろくなった。毎朝、ホウレンソウを市場に出荷し、セリではどう評価されるかを見るうちに、どんなものを作るといいのかもわかってきた。

退職する社員の言葉で法人化を決意

栽培は軌道に乗り、就農4年目にはハウスをさらに520坪増築した。しかし、課題もあった。砂丘地では秋、冬、春の出来は良いが、夏は暑すぎてホウレンソウが立枯病のようになってしまい、うまく育たなかった。土壌改良も試みたが状況は好転せず、経営的にも苦しくなった。代わる品目はないかと探し、出会ったのがチンゲンサイだった。最初に自分のハウスで試験したときはうまくできなかったが、たまたま市場に行った際に、先輩農家が作った見事なチンゲンサイが出荷されているのを見て、驚いた。その足ですぐに先輩のハウスに行き、立派なチンゲンサイを目にして「これだ!」とひらめき、教えを請い、栽培を始めた。
その後はチンゲンサイを中心に、ホウレンソウとの輪作体系に変えた。ホウレンソウは袋詰めで1袋に8株でいっぱいになればいい方で、平均すると10~14株くらい必要なのに対し、チンゲンサイは2株か3株で1袋という効率の良さも魅力だった。当時は値段も良く、売上も伸び、その波に乗って、さらにハウスを拡大し、パートの雇用も増やした。
ところがこの時期、若いパート社員が4名も一気に辞めてしまうという事件が起きた。理由を聞くと「そろそろ私たちもまともな会社に勤めたいので」と言われてしまったという。地元に誘致された企業に就職することが決まっていたのだ。
「ああ、そういうことかと思いましたね。労働力に頼る雇用型の野菜経営は、他企業に負けない労働環境を整えないとダメだと。ならば法人にしようと決めました」
法人化は早い時期からの目標だった。農業は栽培技術だけではなく、経営力が大切だとの考えを持ち、就農2年目から青色申告を“無理矢理オヤジから引き継ぎ”大塚が担当してもいた。近所の篤農家と呼ばれる人たちが、若いときから経営者として切り盛りしていたことを知っていたからだ。それにならい、大塚自身も家の金の流れを把握し、経営力を磨き、ゆくゆくは法人化し、社長になること。そして、葉物野菜を中心に栽培し、通年雇用を目指していた。

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