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江刺の稲

未利用資源に農業の未来がある

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第332回 2024年02月27日

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本誌は「過剰の病理社会」の中でいつまでも「欠乏の論理」を続ける我が農業界への批判を続けてきた。我が国の国民一人当たりのカロリー摂取量は1971年をピークに減り続け、2004年以降は終戦翌年の1946年より少ないという厚生労働省のデータを何度も紹介してきた。
そんな過剰の社会の中での農業も高齢化による農家および農業就業人口の減少で否応もなく農業構造が変化し、それ以外に暮らすすべを持たない「農民」の「暮らし方としての農業」というものから社会の変化とマーケットを意識する「農業経営者」たちによる「産業としての農業」が一般的となってきた。そして、多くの土地持ち労働者としての農家の多くは高齢者が正月や節句の年中行事として、もとより採算度外視のコメ作りをする時代が長く続いている。
その結果のコメ市況の低迷を嘆く人々は農業経営者の中にもいるが、農業界が自らの過剰生産の結果なのに政府に助けを求めようとするのはもうそろそろいい加減にすべきだろう。
この雑誌を始める前、当時我が国最大の発行部数を誇った農協組織の月刊誌に家庭菜園の企画を提案したところ、担当編集者に「君は何を言うのだ。農家は不足の食糧を自給するための菜園を作っているのだ」と怒られたことを覚えている。農業界の貧しさを象徴するために農協メディア編集者は農家の貧しさを強調するためにわざわざ「自給菜園」という言葉を使っていたのだ。それが農業界の政治要求の基本だった。
すでに我が国でバブル景気と呼ばれる時代が始まりかけ、当時の生産者米価も史上最高レベルに達していた。それでも「貧農史観」に染まった農業界の啓蒙家たちに我が国の農家は指導されてきた。

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