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農業経営者ルポ

「お客様」が見える農業者

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第2回 1993年07月01日

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池田吉宏さん(34歳)は、茨城県の代表的野菜産地である鹿島町の専業経営者である。春キャベツニ・七ha、ジャガイモ一・四ha、サツマイモ〇・六haの栽培のほか、家の脇の道路に焼イモ屋のプレハブ店舗を開いている。
 池田吉宏さん(34歳)は、茨城県の代表的野菜産地である鹿島町の専業経営者である。春キャベツニ・七ha、ジャガイモ一・四ha、サツマイモ〇・六haの栽培のほか、家の脇の道路に焼イモ屋のプレハブ店舗を開いている。

 始めて三年たった焼イモ屋に、池田さんのセンスを見込んで、二号店開店を勧める人も出てきた。そう書くといかにも商才にたけた人のように聞こえるかもしれない。しかし池田さんは、焼イモ屋を開く目的を単にもうけを増やすためとは考えていない。それは、

 「売上を増やしたいというより、その利益を上げることで畑を酷使しないですむ経営にしたいから」

 池田さんも、最初からそのような経営観を持っていたわけではない。というより、子供時代にはそもそも農業など眼中になかった。

 しかし、ある“挫折”と“出会い”が彼を農業に向かわせた。そして、当時は気づかなくても、その挫折の中から学んだこと、たくさんの人との出会いが現在の池田さんの人生観、農業経営観の原点になっているようだった。


「挫折」そしてある「出会い」


 歯科大学を目指しての浪人生活。そして挫折。苦しい家計の中で浪人生活を許してくれた両親への申し訳なさと、悔しさ、情けなさ。ノイローゼだった。原因は自分の中にあるのにいつのまにか人を妬み、人が己を非難しあざ笑っているとまで考え込んでしまう自分。にもかかわらずそんな思いの中に安住した無為の日々。家で農業を手伝うようになっても、それは親へのうしろめたさと、そこに逃げ込む場所を求めただけのことだった。何をする気も根気も夢もない毎日だった。

 立ち直るきっかけは無気力状態の中でのアルバイト仕事。豚の飼料運びの配達先、Nさんとの「出会い」だった。Nさんは養豚のほかにも様々な野菜を作る複合経営農家で、その進んだ経営や機械化は彼がそれまで持っていた農業のイメージとは全く違っていた。それ以上に配達のたびに会うNさんの言葉や振る舞いに影響を受けるようになっていた。

 耕耘機一台のそれまでの機械化から、まず二〇馬力のトラクタを買った。就農三年目からは親戚の土地を借りて規模拡大も進めた。しかし、現実は思い通りには進んでくれなかった。もう農業をやめようかとも思った。

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