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農業経営者ルポ

形だけお米であれば良いのか?

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第3回 1993年10月01日

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お客様をお迎えすることへの感謝


 しかし、それができたのも、家族皆で共有できた信念があり、お客様の感謝の言葉や様々な人との出会いがあったからだと言う。

 以前、乳ガンになって両方の乳房を取り、ワラをもすがる思いで小田川さんのお米を食べたという熊本の女性が、

 「乳はもうないが、命だけは助かった。一言お礼をいいたくて」

 と、飛行機を乗り継いで訪ねてきたという。様々な障害を乗り越えてやってきた小田川さん一家にとって、それは何よりもの感激であり、勇気づけであった。むしろご一家の感謝の方が強かったという。

 以来、お客様になっていただく方には、小田川さんの「すこやか農場」に迎え、家族と一緒に食事をし、寝泊まりしてもらうようにしている。さもなくば、できる限り家族でお客さんを訪ね、身体の様子を聞き、白分かちの稲作のあり方を理解してもらうことに心がけている。農業を理解してもらうための宿泊設備の建造も計画している。


減反政策に対抗する信念


 小田川さんが米の販売を始めるきっかけは減反政策にあった。

 こうした農業観を持ってきた小田川さんにとって、稲作りを単にお金の問題としてしか捉らえず、お金をやるから田に草を生やせ、その誇りをお金で買ってやるという論理はどうしても我慢ならなかった。そして、小田川さんは減反を拒否した。最初は支持する人も多かったが、やがて村八分のような状態になってしまった。やがて、そのペナルティで農協には全く米を出荷できなくなった。

 「東京の高島平団地を訪ね、一軒一軒の家庭に売って回ったが売れなかった。しようがなく、名古屋、大阪と移動し、福岡まで行ってもお客さんはこちらを振り返ってばくれず、トラックに満載したお米を積んだまま、はるか津軽の家まで戻らなければならなかった」

 小田川さんは、当時を振り返る。

 食べるお米には困らなくとも、学齢時の子供のいる家庭にとってその数年間の経済的困窮は大変だった。

 「お金というものが存在しない国に行っても生活できるドン底まで体験した」

 でも、それだけ家族は結束できた。

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