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経営に女性あり

経営を築く女へと成長させた農業への知的興味

 高校を卒業すると地元の会社に就職したが、勤務ぶりが認められて、半年後に東京支店に転勤。五年間を東京で過ごしたものの、適齢期を迎えて、地元へのUターンを選択した。

 「仕送りではなく、身近で母に頼ってもらえる存在になりたかった。お金じゃなくて、心というか……」

 と知子さんは言う。すでに父は亡く、年老いた母が一人で、五反歩の畑を耕していた。

 農業。当時の知子さんが描いていた大百姓の農業とは、広大な土地をのんびりと自由自在に耕作し、サラリーマンのように時間に追われることもない仕事というイメージだ。

 「本当のことをいうと、大百姓に嫁げば、大型機械で母を手伝いに行けると思ったんです。私か手伝いに行けば、手間を払わずにすむでしょ。それに農家なら時間も自由で、しょっちゅう、顔を見に行けると思ったし」

 勝田市と常陸太田市。車にすればわずか二〇~三〇分の距離が、外国のように遠くなった。大百姓の嫁に、自由な時間はないに等しい。

 結局、稲刈りと耕うんで手伝いに行けたのは一回だけ。それでも、田んぼを機械で掘ったのはうちが一番だと喜んだ母の顔を、知子さんは今でも覚えている。


忍耐を支え九日記の中の「私」


 忍耐は美徳だ、という意識は日本人の心情に根深く棲みっいた澱のようなものかもしれない。

 当時、お盆、正月、しぶぬき(麦の収穫が終わるころ)以外は、実家へは帰れなかった。その三回の休みでさえ、嫁に行った義妹たちが戻ってきてからでないと、「行ってこい」の声はかからない。お風呂でボロボロと涙を流しては、顔を洗い、何くわぬ顔で舅姑に「おやすみなさい」と就寝のあいさつをする。

 家を出ようと思ったこともたびたびあった。

 それを思いとどまらせたのは、母の存在。母に心配をかけたくない、知人たちに、それみたことかと言われたくない意地。

 そして夫の支え。

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