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かつて稲麦で蓄えた経営余力がハウスでの試行錯誤を可能にしたように、今や稲麦部門をしのぐように育ってきた水耕ミツバの余裕を思い切って次の部門への研究費、試行錯誤のための費用に使おうというのだ。
「それに、前からトラクタは六〇になったら降りようと考えてきた。そのための準備もせにゃならん。それに、もし自分がポックリいったら雇用の男手があったとしても大規模な稲作は女房には無理。稲作は機械化されても、やはり男手が中心になる肉体労働なんだから。でもミツバのハウスならできる。今だって、市場の開拓などはあったにしても、栽培ノウハウは確立できたし、作業で自分の出る幕はほとんどない。ミツバは出荷のための調製作業が人手を要し商品管理上も肝心なものなのだけど、そのためのパートさんの管理はすべて女房まかせ。むしろその方がうまくいく。これでとりあえずの安心」という。
こう言えば、今まで何もかにもがトントン拍子にきたようにも聞こえるが、試行錯誤の連続だった。稲麦だけでは不安定だからといって始めた地床のハウスイチゴ。当時から人を雇っていたが、年間雇用につながると考えて始めたものが、やがて働いている人のほうがハウスだけで働きたいと言うようになった。泥まみれになる稲作は嫌だというのだ。人を使う苦労もした。
水耕ミツバの前には一四aのイチゴハウスもやった。立体のべットのイチゴ栽培である。昭和五五年から五年間それに取り組んだ。失敗だった。そのあと始めたミツバ水耕栽培であった。液肥のコントロールはコンピュータででき、周年の出荷体制ができるようになった。それと前後して、それまで農協に勤めていた奥さんを第二子出産を期にやめさせる説得をして、経営に引き入れる。それまでは、パートのオバサンたちを使うことに苦労していた。そして平成元年二四〇〇m 2 の屋根型ガラス室を建設。しかし、べットの消毒がうまくいかずに悩まされ続けた。でもそれも蒸気消毒の導入で解決された。
イチゴの時代から数えればハウス栽培に取り組んで一四年。水耕ミツバで一〇年。水耕ミツバの収益性は、ハウスの設備投資に約五〇〇〇万円、常時七~八人のパート雇用などの人件費、それに一ケース三〇〇円から三〇〇〇円まで乱高下する市場価格ではあっても、年間でいえば稲作の収益をしのぐようにもなった。今、水耕ミツバをやる人がレタスやセロリに転向していっているそうだ。調製にかかる人手を苦にしてのことだ。近藤さんはそれを逆手に取ろうと思っている。
「人に払う金が惜しいなんて思ったら経営なんてできないし、人を頼んでこそ経営者。それに人に働く場所を作るのも経営者の役割ではないか。ミツバの調製は座ってできる軽作業。バアチャンたちでもできる仕事だ。人手が確保できるなら、これからミツバはもっと面白くなるはず」と考えるからだ。
近藤さんは、常に人との出会いの中で自分を磨いてきたという。JC以来のロータリークラブヘの参加も、有機物循環農法研究会の呼びかけもそのためだ。自分の周りに入る同類の人々の間で自慢話をしていても所詮は井の中のカワズ。自分より優れた人々、異質な人々に何人会えるかが人生の豊かさを決めるような気がする、と近藤さんはいう。一三年前から受け入れてきた中国の研修生も大きな刺激となった。それをきっかけにして、アジア、アフリカ、中南米、様々な外国人とも出会った。
と近藤さんの言葉では「飲ミニケーション」というが、酒飲みは近藤さんの才能の一つであるのかもしれない。積極的に外に出、また人を迎える。そんな中でいつ役に立つかは分からないさまざまなひらめきや経営プランのヒントが与えられてきたのだという。近藤さんの「研究費」といわれるものの大部分はここで使われているのかもしれない。
「それに、前からトラクタは六〇になったら降りようと考えてきた。そのための準備もせにゃならん。それに、もし自分がポックリいったら雇用の男手があったとしても大規模な稲作は女房には無理。稲作は機械化されても、やはり男手が中心になる肉体労働なんだから。でもミツバのハウスならできる。今だって、市場の開拓などはあったにしても、栽培ノウハウは確立できたし、作業で自分の出る幕はほとんどない。ミツバは出荷のための調製作業が人手を要し商品管理上も肝心なものなのだけど、そのためのパートさんの管理はすべて女房まかせ。むしろその方がうまくいく。これでとりあえずの安心」という。
人に働き場所を作るのが経営者の仕事
こう言えば、今まで何もかにもがトントン拍子にきたようにも聞こえるが、試行錯誤の連続だった。稲麦だけでは不安定だからといって始めた地床のハウスイチゴ。当時から人を雇っていたが、年間雇用につながると考えて始めたものが、やがて働いている人のほうがハウスだけで働きたいと言うようになった。泥まみれになる稲作は嫌だというのだ。人を使う苦労もした。
水耕ミツバの前には一四aのイチゴハウスもやった。立体のべットのイチゴ栽培である。昭和五五年から五年間それに取り組んだ。失敗だった。そのあと始めたミツバ水耕栽培であった。液肥のコントロールはコンピュータででき、周年の出荷体制ができるようになった。それと前後して、それまで農協に勤めていた奥さんを第二子出産を期にやめさせる説得をして、経営に引き入れる。それまでは、パートのオバサンたちを使うことに苦労していた。そして平成元年二四〇〇m 2 の屋根型ガラス室を建設。しかし、べットの消毒がうまくいかずに悩まされ続けた。でもそれも蒸気消毒の導入で解決された。
イチゴの時代から数えればハウス栽培に取り組んで一四年。水耕ミツバで一〇年。水耕ミツバの収益性は、ハウスの設備投資に約五〇〇〇万円、常時七~八人のパート雇用などの人件費、それに一ケース三〇〇円から三〇〇〇円まで乱高下する市場価格ではあっても、年間でいえば稲作の収益をしのぐようにもなった。今、水耕ミツバをやる人がレタスやセロリに転向していっているそうだ。調製にかかる人手を苦にしてのことだ。近藤さんはそれを逆手に取ろうと思っている。
「人に払う金が惜しいなんて思ったら経営なんてできないし、人を頼んでこそ経営者。それに人に働く場所を作るのも経営者の役割ではないか。ミツバの調製は座ってできる軽作業。バアチャンたちでもできる仕事だ。人手が確保できるなら、これからミツバはもっと面白くなるはず」と考えるからだ。
出会いの数が人生の豊かさを決める
近藤さんは、常に人との出会いの中で自分を磨いてきたという。JC以来のロータリークラブヘの参加も、有機物循環農法研究会の呼びかけもそのためだ。自分の周りに入る同類の人々の間で自慢話をしていても所詮は井の中のカワズ。自分より優れた人々、異質な人々に何人会えるかが人生の豊かさを決めるような気がする、と近藤さんはいう。一三年前から受け入れてきた中国の研修生も大きな刺激となった。それをきっかけにして、アジア、アフリカ、中南米、様々な外国人とも出会った。
と近藤さんの言葉では「飲ミニケーション」というが、酒飲みは近藤さんの才能の一つであるのかもしれない。積極的に外に出、また人を迎える。そんな中でいつ役に立つかは分からないさまざまなひらめきや経営プランのヒントが与えられてきたのだという。近藤さんの「研究費」といわれるものの大部分はここで使われているのかもしれない。
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昆吉則 コンキチノリ
『農業経営者』編集長
農業技術通信社 代表取締役社長
1949年神奈川県生まれ。1984年農業全般をテーマとする編集プロダクション「農業技術通信社」を創業。1993年『農業経営者』創刊。「農業は食べる人のためにある」という理念のもと、農産物のエンドユーザー=消費者のためになる農業技術・商品・経営の情報を発信している。2006年より内閣府規制改革会議農業専門委員。
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