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【江刺の稲】
耕しくさぎ(耘)ること
- 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
- 第6回 1994年06月01日
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辞典で「耕耘(こううん)」という言葉を引くと、「耕」は「耕す」こと、そして「耘」の字は「くさぎる」と読み、その字義は「草切る」「草を取ること」だとある。すなわち「耕耘」とは「耕し耘ること」「耕して雑草を取り除くこと」という意味なのである。また、「耕す」という言葉は「たがえす(田返す)」の音が転じたもので、「田を返す」こと「土を反転」することであるらしい。
「耕し耘る」ことであればこそ、単に土を軟らかくするだけでなく。「だがやす(田返す)」ような面倒なことを人はしてきたのだ。
4号の経営者ルポで紹介した高松求さんにお聞きしたことがある。高松さんが新米の百姓だったごろに教えられた、鍬で二段耕にする「耕し方」に込められた意味を、近年、プラウを使うようになって改めて気づかれたといっておられた。
かつての鍬による二段耕は、草の繁茂を抑え、ポッコリと土を反転していくことで風乾効果を最大限に生かして、軟らかい上層を形成していく。プラウを使うようになって、二段耕がもっていた耕すことの意味を改めて知ったというのである。
肝心なことは、高松さんの畑や水田は、普通の人より除草剤の使用が少なく、しかも手間も抜けて良い作を得ているのだ。
いつのまにか、我われは「耕す」ことを、単に「土を軟らかくする」という意味にしか意識しなくなってきている。種をまき、苗を植えるという、その場の必要でしか作業の意味を考えなくなってしまっているのではないか。実は、そのために後から余計な手間や費用がかかり、さらには作物が育つ環境を壊してしまうようなことをしているのではないか。
「種をまく」という今の必要ばかりにとらわれて、「草を減らす」という明日への手だてを見逃してしまっているのではないか。
「上農は草を見ずして草を取る」とは、多分このことをいっているのだと思う。
むしろ、現代のような便利な手段が使えなかった時代に、人は現代よりはるかに想像力を働かせ、個々の手段や道具あるいはそれによる作業、仕事の持つ意味を、そして自然の力を、深く理解していた。科学の知識はなくとも経験が知恵としての農法を作り出していった。それは習慣の中に込められ、農を営むもの、生きる者のわきまえとしてしつけられ、受け継がれてきた。
とかく我われは、現代の技術手段と比べて、がっての農法は苦役のうえに成り立っていたという側面ばかり見てしまう。確かに、現代の農業の労働生産性は向上した。化学肥料や農薬という濃縮された技術手段を我われは得た。
しかし、自然というシステム、あるいは自然という無人工場を利用するという農業の意味とそのやり方は、昔も今も。基本的には何も変わっていないのだ。むしろ、さまざまな技術や制度を持った分だけ、人の振る舞いとしては愚かなものになってきているのかもしれない。せいぜい、少しばかり小賢しく自然や社会に対して傲慢になっただけなのではないか。
「耕し耘る」ことであればこそ、単に土を軟らかくするだけでなく。「だがやす(田返す)」ような面倒なことを人はしてきたのだ。
鍬による二段耕の意味
4号の経営者ルポで紹介した高松求さんにお聞きしたことがある。高松さんが新米の百姓だったごろに教えられた、鍬で二段耕にする「耕し方」に込められた意味を、近年、プラウを使うようになって改めて気づかれたといっておられた。
かつての鍬による二段耕は、草の繁茂を抑え、ポッコリと土を反転していくことで風乾効果を最大限に生かして、軟らかい上層を形成していく。プラウを使うようになって、二段耕がもっていた耕すことの意味を改めて知ったというのである。
肝心なことは、高松さんの畑や水田は、普通の人より除草剤の使用が少なく、しかも手間も抜けて良い作を得ているのだ。
いつのまにか、我われは「耕す」ことを、単に「土を軟らかくする」という意味にしか意識しなくなってきている。種をまき、苗を植えるという、その場の必要でしか作業の意味を考えなくなってしまっているのではないか。実は、そのために後から余計な手間や費用がかかり、さらには作物が育つ環境を壊してしまうようなことをしているのではないか。
「種をまく」という今の必要ばかりにとらわれて、「草を減らす」という明日への手だてを見逃してしまっているのではないか。
「上農は草を見ずして草を取る」とは、多分このことをいっているのだと思う。
むしろ、現代のような便利な手段が使えなかった時代に、人は現代よりはるかに想像力を働かせ、個々の手段や道具あるいはそれによる作業、仕事の持つ意味を、そして自然の力を、深く理解していた。科学の知識はなくとも経験が知恵としての農法を作り出していった。それは習慣の中に込められ、農を営むもの、生きる者のわきまえとしてしつけられ、受け継がれてきた。
とかく我われは、現代の技術手段と比べて、がっての農法は苦役のうえに成り立っていたという側面ばかり見てしまう。確かに、現代の農業の労働生産性は向上した。化学肥料や農薬という濃縮された技術手段を我われは得た。
しかし、自然というシステム、あるいは自然という無人工場を利用するという農業の意味とそのやり方は、昔も今も。基本的には何も変わっていないのだ。むしろ、さまざまな技術や制度を持った分だけ、人の振る舞いとしては愚かなものになってきているのかもしれない。せいぜい、少しばかり小賢しく自然や社会に対して傲慢になっただけなのではないか。
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昆吉則 コンキチノリ
『農業経営者』編集長
農業技術通信社 代表取締役社長
1949年神奈川県生まれ。1984年農業全般をテーマとする編集プロダクション「農業技術通信社」を創業。1993年『農業経営者』創刊。「農業は食べる人のためにある」という理念のもと、農産物のエンドユーザー=消費者のためになる農業技術・商品・経営の情報を発信している。2006年より内閣府規制改革会議農業専門委員。
江刺の稲
「江刺の稲」とは、用排水路に手刺しされ、そのまま育った稲。全く管理されていないこの稲が、手をかけて育てた畦の内側の稲より立派な成長を見せている。「江刺の稲」の存在は、我々に何を教えるのか。土と自然の不思議から農業と経営の可能性を考えたい。
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