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農業経営者ルポ

思いつづけることを止めれば、可能性もなくなる

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第7回 1994年09月01日

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夢の実現、そして突然の奈落


 富田さんがラベンダーを始めた昭和三三年に、道と国はラベンダーを奨励特用作物に指定した。補助金もついて、富良野のラベンダー栽培は一気に広がった。

 昭和四五年ころ、富良野地区での栽培面積は二三〇haに達していた。挿し木をしてから収益が上がるまでに三年から五年、一時期は小豆の五割り増し以上の収益が出る作物だった。富田さんも一〇aから始まって、一・二haのラベンダーを作るようになっていた。

 香水の原料ということに若い農家たちには、何か新しい時代の農業を感じさせ、みんなが活気に満ちていた。

 しかし、貿易が自由化され、安価な合成香料の技術が進歩すると、環境は一変した。昭和四七年、安い輸入香料の導入で契約していた香料会社は買い入れ価格を引き下げてきた。補助金つきで奨励されたものは、消えて行くのも一瞬のことだった。そして翌年には買い上げそのものが中止されてしまった。

 耕作者組合長をしていた富田さんは、その対策、陳情に奔走した。線香の原料としての出荷もあったが、それも昭和五一年には完全に道が閉ざされた。そして、ラベンダーが残っているのは富田さんの畑だけになった。

 当時の富田家の収入源は、水稲、畑作が半々ずつで六・六ha。それだけでも大変な手間なのに、お金にならず、しかも管理に手のかかるラベンダー畑は、経営を圧迫した。かつて父上が言った

 「食べるものを作るのが百姓だ」

 という言葉通りの結末だった。

 すでに数年前に他の家がやっていたように、富田さんも何度もラベンダーをすき込むために畑にトラクタを持ち込んだ。しかし、トラクタのアクセルを踏み込むことができなかった。このラベンダーをつぶしてしまったら、自分の生きてきた意味を失いそうな気がしていた。

 重い足をひきずって家に帰り、

 「…どうしてもできなかった」

 という富田さんの言葉に、家族の誰も異をとなえなかった。あれほど反対した父上を含めて、みな同じ気持ちだったのだ。富田さんのラベンダーへの思いは、すでに家族全員の思いになっていた。そして翌年もまた、同じことの繰り返しであった。それでも富田家の人びとは、お金になる目途もないラベンダー畑の草取りに精を出した。世間の目は、富田家の人びとをよはどの楽天家か変人家族と見たのではなかったろうか。

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