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【新・農業経営者ルポ】
人々の支えがあって実現した新規就農、でも・・・・・・
- つぶつぶ農園・和菜
- 第64回 2009年09月01日
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こんな言葉がある。
「農業を変えるのは、若者とよそ者と馬鹿者である」筆者もその通りだと思う。それだけ、農業界そして農村にあるムラ意識がそれを妨害している。東京や千葉の都市部で体験農園を経営する人から聞いた話である。「村内で勝手なことをするな」練馬や松戸のような市街地ですら、その生活実態とは関係なく地域の農家を自認するおじいさんにそういわれことがあるそうだ。 今回紹介する鈴木敏夫(32歳)とその妻で、農業をともに取り組む美穂子(29歳)の新規就農10年の体験は、農家として生まれて農業を職業として選んだ多くの読者にとっても農業を考える上で示唆に富むものではないかと思う。
鈴木敏夫・美穂子夫妻は、10年前に敏夫の実家のある埼玉県の児玉町(現本庄市児玉町児玉)で農業を始めた。
二人はともに、非農家の出身。敏夫の両親は夫婦揃って児玉町の役場に勤めてきたサラリーマン。美穂子も福島県と富山県出身のサラリーマンの娘である。美穂子は、両親や中学の教師の反対にもかかわらず農業高校に行き、さらに埼玉県の農業大学校に進んだという人であるが、美穂子に言わせると、
「農業をやりたいというより、農業ブームといわれる今の若者の多くがそうであるように、なんとなく農業に憧れていたんです。それを社長(敏夫)に引っ張り込まれたのです」と笑う。 一方、敏夫も、かつては農業に特別の思いがあったわけではない。高校時代から海外青年協力隊として海外に行きたいという夢があった。そのために英語を学ぼうと英語の専門学校に進学した。でも、それだけでは何の役にも立つことができない。それで埼玉県の農業大学校に進学した。美穂子は農業大学校での敏夫の1学年後輩。ブロッコリーの栽培研究をテーマとする実習で一緒に学んだ仲だ。
敏夫は大学校卒業後、農業の実践を学ぼうと、農業生産法人を持った野菜のカット会社に就職した。しかし、そこでは、単なる作業員として使われるだけで、農業の経営や技術を学ぶ場所ではないと思い、2カ月で辞めてしまう。
途上国の人に役立ちたいと思っても、自分には何もない。まずは自分で農業を経営してみなければ……。それも、その場で調達できるものを使っての農業を学ぼうと思った。敏夫が特別栽培レベルであっても除草剤や化学肥料に依存しない農業にこだわるのはそのためである。22歳のときだった。
農地もなく、資金もない。農家として行政的に、そして地域の中で認められなければ農地すら手に入れられない。でも、行く先の農家はみな高齢化している。ここには、自分が必要とされる場が必ずあるはずだ。そこで何年間か実績を積み、土地を手に入れる交渉もしてみよう。もしそれが駄目だったとしても、それからサラリーマンになってもよいかなと思った。また、技術を身につけてあらためて協力隊に行くという思いもあった。なによりも、自分がどれくらいできるか試してみたかった。
大学校時代の研修先の農家に手伝いに行くことから始めた。そして、地域の農家に受け入れられることに一所懸命だった。軽トラックを買い、すれ違う人誰彼かまわず挨拶をした。でも、最初は挨拶を返してくれる人のほうが少なかった。やがて、敏夫を応援し、手助けしてくれる先輩農家に出会うようになった。彼らの農場には彼の年齢よりも長く働いている75馬力のMFを含めて7台のトラクタがある。それらのほとんどは、高齢化の進んだ生産組織に手伝いに行ったことを契機に譲り受けたものだ。技術を教えてもらえるだけでなく親身になって新規就農に協力してくれる人々も増えて来た。
でも、敏夫たちが経営規模を拡大していくと、かつては、親切にしてくれた人々を含めて、微妙な反応の変化もあった。地域内の優良な畑が耕作放棄される中で、県外の農業生産法人に借りられてしまう状況も出てきている。俊夫はそんな状況で、どうして狭い地域の中で競争をしなければならないのかと思うこともあるという。
敏夫が農家になるきっかけは、農協職員から埼玉県が勧めている「ルーキー農業塾」という新規就農応援する制度だった。制度を利用し、地域の耕作放棄地を借り、農協に出荷するのである。敏夫はそれに飛びついた。
「農業を変えるのは、若者とよそ者と馬鹿者である」筆者もその通りだと思う。それだけ、農業界そして農村にあるムラ意識がそれを妨害している。東京や千葉の都市部で体験農園を経営する人から聞いた話である。「村内で勝手なことをするな」練馬や松戸のような市街地ですら、その生活実態とは関係なく地域の農家を自認するおじいさんにそういわれことがあるそうだ。 今回紹介する鈴木敏夫(32歳)とその妻で、農業をともに取り組む美穂子(29歳)の新規就農10年の体験は、農家として生まれて農業を職業として選んだ多くの読者にとっても農業を考える上で示唆に富むものではないかと思う。
漠然とした憧れから
鈴木敏夫・美穂子夫妻は、10年前に敏夫の実家のある埼玉県の児玉町(現本庄市児玉町児玉)で農業を始めた。
二人はともに、非農家の出身。敏夫の両親は夫婦揃って児玉町の役場に勤めてきたサラリーマン。美穂子も福島県と富山県出身のサラリーマンの娘である。美穂子は、両親や中学の教師の反対にもかかわらず農業高校に行き、さらに埼玉県の農業大学校に進んだという人であるが、美穂子に言わせると、
「農業をやりたいというより、農業ブームといわれる今の若者の多くがそうであるように、なんとなく農業に憧れていたんです。それを社長(敏夫)に引っ張り込まれたのです」と笑う。 一方、敏夫も、かつては農業に特別の思いがあったわけではない。高校時代から海外青年協力隊として海外に行きたいという夢があった。そのために英語を学ぼうと英語の専門学校に進学した。でも、それだけでは何の役にも立つことができない。それで埼玉県の農業大学校に進学した。美穂子は農業大学校での敏夫の1学年後輩。ブロッコリーの栽培研究をテーマとする実習で一緒に学んだ仲だ。
敏夫は大学校卒業後、農業の実践を学ぼうと、農業生産法人を持った野菜のカット会社に就職した。しかし、そこでは、単なる作業員として使われるだけで、農業の経営や技術を学ぶ場所ではないと思い、2カ月で辞めてしまう。
途上国の人に役立ちたいと思っても、自分には何もない。まずは自分で農業を経営してみなければ……。それも、その場で調達できるものを使っての農業を学ぼうと思った。敏夫が特別栽培レベルであっても除草剤や化学肥料に依存しない農業にこだわるのはそのためである。22歳のときだった。
農地もなく、資金もない。農家として行政的に、そして地域の中で認められなければ農地すら手に入れられない。でも、行く先の農家はみな高齢化している。ここには、自分が必要とされる場が必ずあるはずだ。そこで何年間か実績を積み、土地を手に入れる交渉もしてみよう。もしそれが駄目だったとしても、それからサラリーマンになってもよいかなと思った。また、技術を身につけてあらためて協力隊に行くという思いもあった。なによりも、自分がどれくらいできるか試してみたかった。
大学校時代の研修先の農家に手伝いに行くことから始めた。そして、地域の農家に受け入れられることに一所懸命だった。軽トラックを買い、すれ違う人誰彼かまわず挨拶をした。でも、最初は挨拶を返してくれる人のほうが少なかった。やがて、敏夫を応援し、手助けしてくれる先輩農家に出会うようになった。彼らの農場には彼の年齢よりも長く働いている75馬力のMFを含めて7台のトラクタがある。それらのほとんどは、高齢化の進んだ生産組織に手伝いに行ったことを契機に譲り受けたものだ。技術を教えてもらえるだけでなく親身になって新規就農に協力してくれる人々も増えて来た。
でも、敏夫たちが経営規模を拡大していくと、かつては、親切にしてくれた人々を含めて、微妙な反応の変化もあった。地域内の優良な畑が耕作放棄される中で、県外の農業生産法人に借りられてしまう状況も出てきている。俊夫はそんな状況で、どうして狭い地域の中で競争をしなければならないのかと思うこともあるという。
敏夫が農家になるきっかけは、農協職員から埼玉県が勧めている「ルーキー農業塾」という新規就農応援する制度だった。制度を利用し、地域の耕作放棄地を借り、農協に出荷するのである。敏夫はそれに飛びついた。
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つぶつぶ農園・和菜
鈴木敏夫・美穂子(埼玉県本庄市) すずき・としお●1977年、埼玉県本庄市(旧児玉町)生まれ。 みほこ●1980年、埼玉県戸田市生まれ。 夫婦揃って非農家出身。埼玉県の農業大学校を卒業後、敏夫の実家のある兒玉町で就農。現在、60aのハウスと約6ha.の畑で野菜を生産し、生協を中止に販売している。同時に彼らは、これから農業を職業として選択して入ってくる人々のために、地域の農地を彼らの責任で借りていくことにも熱心である。
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