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新・農業経営者ルポ

「地域に元気、社員に笑顔、社会に緑の風を……」


 その後、北村は家業の養豚経営を手伝いながら経験を重ね、21歳の時に、とうとう日本を飛び出すことになる。農業研修生派米協会(現社団法人国際農業者交流協会)の8期生としてネブラスカ州の養豚場で2年間の研修生活を経験した。日本はオイルショックの真っ只中で、トイレットペーパーの買い占め騒動が巻き起こり、米国ではウォーターゲート事件のニュース一色に染まったころだ。移ろいゆく世間の雑音に惑わされず、海外農場の規模の大きさと経営感覚を肌で感じ、農業の産業としての可能性を確信した2年間だった。


開拓者精神は死なず

 北村の人間力を育んだ2つの経験、実は21歳で渡米したときも、18歳で埼玉のサイボクに行ったときも、父親の進(86歳)が後押ししてくれたのだった。特にサイボクで研修生活を送るために付き添ってくれた父親との思い出は、今でも鮮明に思い浮かぶと言う。出発前夜、親子で夜通し語り明かし、別れを惜しんだ。新幹線で新天地に向かい、父と離れて初めて迎える朝礼でのこと。みんなの前でサイボクの笹崎にこういわれた。

 「北村君のお父さんはすばらしい方だ。みんなもがんばりましょう」

 北村はその言葉がうれしくて涙が出た。父親は、精神的に弱い長男は、若いうちに荒波にもまれることが大事だと考え、母親の反対を押し切って息子をサイボクに送り込んだのだった。厳しくも楽しい研修生活を無事に終えた北村は、埼玉県から自宅の滋賀県まで、自転車旅行をしながら逞しくなって帰ってきた。

 北村が慕う大正生まれの父親の青春時代は、ダイナミックなものだった。当時の日本は移民政策を推し進めていた。1938年に尋常高等小学校を卒業後、14歳で満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡った。満州では今後の日本の産業界の指導者としての使命を背負い、獣医学校で教育を受けることになる。開拓のリーダーとして農業に携わることを夢見るようになった。ところが、18歳の時に学徒出陣で徴兵される。満州から沖縄へ。さらに、その最前線へと向かうべく南大東島に駐屯した。本土決戦に備える最前線で盾となろうと気負いこんでいたが、米軍は大東島に攻撃をしてこなかった。戦乱の中を奇跡的に生き延びたのだ。

 終戦後も開拓に出たいという思いが強かったものの、兄が戦死したため米原に戻り養豚を始めることになる。当時、水田しかない地域に養豚とは何事かと、回りからは変わり者扱いされた。しかし、養豚から発生する糞尿で土地を肥やす新しい農業スタイルを説いて回り、養豚と稲作の両方で収益が上がる経営を皆に奨めていったのである。

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