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江刺の稲

規模拡大を望むなら深く耕せ

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第7回 1994年09月01日

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省力・低コスト化のための集約農法


 「労働時間の短縮」「労働単価の向上」などという理由を付けて、単に総労働時間を減らしてみたところで、その省力の結果が、“作”を危うくし、余分な「対策」を必要とさせるのであれば、その「省力」は経営に何をもたらすのかということだろう。

 我われは「省力」とか「低コスト」だ とかいう「はやり言葉」に少しふり回され過ぎてはいないだろうか。

 もちろんそれは必要である。しかし、その省力・低コスト化のためにと語られる技術が、農業経営の原点を見失った技術観(経営観)によって道案内されていく時、我われの経営は自ら墓穴を掘る形で自滅への道に陥ることになるのだ、ということを忘れてはなるまい。

 農業とは「土」という極めて効率のよい「無人工場」を有効に生かすことによって成り立っている。そこで働いているのは作物自身であり微生物たちである。人はその管理労働をしているにすぎないのだ。

 しかし、時として我われは、実は自分自身がこの無人工場をまかされた管理人であることを忘れて、工場内はゴミだらけサビだらけにしたまま、手前勝手により高い生産を求めてしまっているのではないか。

 その背景には、食うに困らなくなり、いかにも便利そうに見える技術手段を手にしてきた過程で逆に失っているものを省みぬ鈍感さ、あるいは偶然の幸運によってもたらされたに過ぎない現在の豊かさや生産力の持つ危うさへの無疑問さがありはしないか。

 食糧自給率の問題でも、日本農業を守るという問題でもなく、小さくとも一つの経営をあずかる者の生き残るための自問として、「省力」「低コスト化」の検証と、であればこその「集約農法」を、改めて問うてみる必要はないだろうか。

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