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新・農業経営者ルポ

農機具を自作し、開発型農業を楽しむ“豊橋のエジソン”

戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた両親は愛知県豊橋市に入植した。今でこそ全国有数の農産地となっているが、この地に豊川用水が完成するのは20年以上も後になってからである。農地を引き継いだ柴田隆夫は、自ら農業機械を発明し、作業に活かすという独自の農業経営スタイルを行なっている。
 柴田隆夫にとって楽しみな季節がやってきた。毎年、春は4~5月、秋は10月中旬から12月中旬までの計4カ月間は農作業をスタッフに任せて、農機具の開発に専念する。取材日は「豊橋まつり」の初日と重なった。この祭りは、戦後間もない1948年に始まった、東三河地区で最大のイベントである。楽しいはずのお祭りにまつわるほろ苦い思い出も含めて、柴田は時に大笑いしながら語ってくれた。


ダイコンを洗う父の揺れる影を見ながら

 柴田の記憶の中で、今でも鮮明に焼きついている情景がある。中学3年生の冬の夜、進路をどうしようかとぼんやりと考えながら勉強机に向かうと、いつものように作業場から伸びる細長い影が見えていた。その影は、風が吹く度にゆらゆらと揺れていた。裸電球の下で黙々と作業する人の気配が、チャプチャプと水の音と共に伝わる。その度に、視線は窓の外へ。父・義美は古い雨戸を風よけにしながら、ダイコンを洗っていた。

 ある晩、柴田は、兄弟で将来どちらが家を継ぐか話し合いをした。柴田は機械いじりが好きだったため、工業高校への進学を希望。一方、4歳年上の兄は、地元の進学校を卒業して受験勉強を始めていた。

 「まずお前から言えよ」

 兄に促された柴田はこう言った。

 「ぼく、農家を継ぐよ。兄ちゃんは先生になりたいんだろう?」

 兄はこう答えた。

 「そうか、わかった。お前がもし農家を継ぐのがいやなら、自分が継いでもいいと思っていたけどな」

 兄の茂弘は、その後、東京工業大学に進学したが、3年で中退。東京大学文学部を目指して再び受験勉強を始める。ところが、その頃に通っていた座禅の会が縁で、受験勉強を中止。本格的な修行を始めて、現在は岐阜県で住職をしている。その兄が、まだ修行中の身で、久しぶりに実家に戻ってきた5年前。柴田が偶然見つけた古い作文を、2人で回し読みした。当時、まだ小学2年生だった兄の目から見た開拓農家の貧しさが、行間からにじみ出てくる。

 『ぼくは、夏休みの家族のお出かけについて、お母さんにおねだりしてみました。お母さんは、サツマイモの草取りが終わったら、おばあちゃんに海に連れて行ってもらいなさいと言いました。ぼくは一生懸命に草取りをしました。ところが、おばあちゃんは草取りで怪我をしてしまい、行けなくなりました。草取りが終わると、すぐに早稲の刈り取りのお手伝いが始まりました。夏休みの最後になって、おばあちゃんの怪我は治りましたが、こんどは台風が来て、また行けなくなってしまいました。ぼくはとうとう夏休み中に、どこにも行けませんでした。ぼくがつまらなそうにしていると、お母さんが100円くれました。ぼくは修学旅行のために子供貯金をしました。そして、秋の豊橋まつりに連れて行ってねとお願いしました』

 30年ぶりに自分の作文と対面した兄と柴田は2人で大笑いをした。その後、兄は大粒の涙を流しながらしばらく後ろを向いていた。

 「今にしてみれば、海なんて、すぐそこですよ。夏休みに近所の海に連れて行ってもらいたい、そんなささやかな子供の願いもかなえられない農家って、一体何なんですか?」

ところが、当時、幼い2人は自分の家の貧しさには無頓着で、不満はなかった。一体なぜだろう。一年中農作業に追われ、重労働を続けながら開拓を続けた父は、取材中も、圃場の土が流出しないようにと、石を積み上げる作業を続けていた。しかし、その姿には、悲壮感は微塵も感じられない。まるで作物の寝床を愛しみながら作るように見えた。おそらく、60年前に入植した当時も同じだったに違いない。納屋の外壁には、見上げなければ気が付かない程高い位置に、開拓の言葉を刻印した記念碑が掲げられていた。この碑は父の誇りの高さを物語っている。この誇りは、自分の「道」をとことん極めようと、試行錯誤を続ける兄弟それぞれの「意志」となって、引き継がれているのだろう。

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