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新・農業経営者ルポ

12の顔で農村をプロデュースする男

今後の農政の行方に農業関係者のみならず世間の注目も高まる中、農業経営者は時代の変化に対応するビジネス感覚を身につけ、自ら道を切り拓く努力をしなければ生き残れない環境におかれている。今後何をどのように作ればいいのか、市場はどこにあるのか。就農以来、常にこの課題を解決するために、様々な経験と知識を身につけてきた(有)ナスアグリ代表取締役の澤田吉夫は、地域の農村でひとり12役をこなしている。 取材・文/芹澤比呂也 撮影/土井学
 栃木県北部に位置する那須連峰。その麓に広がる広大な扇状地が那須野ヶ原である。江戸時代まで荒野が広がっていたというこの地に、1885年(明治18年)、日本三大疎水のひとつに数えられている那須疏水が開かれた。その後、明治政府の殖産興業政策に沿っていくつもの大農場が展開されていった。

 澤田が生まれたのは終戦を迎えて2年後のことだった。当時、身を寄せていた分家の家族を合わせると総勢20人の大所帯で、本家としての経済的負担が重くのしかかっていたことは子供ながらに感じていた。

 復興期の後も、東京の大学に進学した身内の子弟の学費を工面するため、東京で食堂と燃料店を兼ねた下宿屋の経営をしていた時期があった。店で売られていた炭は実家の裏にある里山の木を焼いたものだったという。農業だけにとどまらず、様々な生業を身につけながら昭和を生き抜いてきた澤田一族は、いつしか血縁を超え、地域の世話役として農村をリードする存在となっていった。


稲ワラにチャンスを感じ水田農業から商事会社の設立へ

 農家の跡取りとして5代目となる澤田吉夫(62歳)は、地元の高校を卒業してすぐに就農。23歳の時に知人の誘いを受けて、7鹿沼市農業公社の作業請負を始めることを決める。県の最南端にある公社の圃場と県北部の自作地とでは、田植えの季節が半月ほどずれるため、作業日程をうまく組み合わせれば効率的に規模拡大できると考えたからだ。

 やがて近隣農家でグループを作り、農業公社の圃場250haを担当するようになる。ところが澤田は、30歳の時に農業公社の請負仕事を段階的に減らしていくことを決断した。現在ではまとめ役の後継者を育てて引き継ぎも終え、完全に撤退している。農業経営のひとつのお手本ともいえる規模拡大路線をあっけなく変更した理由は、一体どこにあったのだろうか。

 「当時、関東地方に3カ所あった競走馬のトレーニングセンターが、茨城県の美穂村に統合されて移転するという話を耳にしたんです。その瞬間、これからは稲ワラが商売になるぞとピンときました」

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