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木内博一の和のマネジメントと郷の精神

賞賛する力が農業界を強くする

植物を育てる農業には、人間再生の機能がある。都会の農業は、疲弊した価値観の転換をはかり、メンタルなケアを行なうことを目的として生まれた。一方で、田舎の農業は、地域を存続させるための生活の糧として存在する。「癒し」のための農業も「生活」のための農業も、どちらも等しく、農業の発展に寄与するものだ。

農業の多様なロケーション

 本誌12月号で、高橋がなり氏から本コラムが面白くないとの指摘を受けた。それにより、いまの時代の「多様な農業のあり方」を類型的に促え直す機会を得た。がなり氏に謝辞を述べたい。

 がなり氏が批判した意図は「効率よく儲かる農業の仕組み作り」を述べるという姿勢が当たり前でツマラナイとのこと。私は戸惑いを覚えた。同じ農業といっても、がなり氏と私のロケーション(立ち位置)はまるで異なる。

 農業を大きくわければ、農的暮らし、農的副収入、専業農業の3つに分類できる。細かくいえばさらに枝葉でわけられる。そこで農に関わっている人たちは、それぞれポリシーだったり考え方をもっている。そのため、農業政策にしても、全部をカバーしようとするのは不可能となる。例えば、食料自給率をあげるのか、それとも、日本の農業を産業化するのかなど、ピンポイントに焦点を絞り、展開する必要がある。


田舎の農業と都会の農業

 がなり氏と私の農業の何が違うかといえば、私は田舎で、がなり氏は都会で農業をしている。そもそも我われの住む村には産業がない。暮らしを守るには、地域の持つ資源を最大限に活用して、産業を創り上げていかなければならない。一番豊かにある資源は農産物を生み出せる土地であり、その出口としての農業なのだ。そうして産業を創り雇用を生み出さなければ、地域そのものの存続ができない。つまり「生活」のための農業をしているといっていいだろう。そんな中、マーケットについて勉強し、需要に対応した生産のあり方をつくることで発展してきた団体が和郷園である。

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