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農業経営者ルポ

自分との闘いに克てるか 

「カイワレ戦争」に勝ち残る


 こう書けば一本調子の発展のように聞こえる。どんな仕事でも、高い目標をもてば、それだけ超えなければならないハードルも高いものだ。

 昭和六〇年ごろには育苗センターも、かなり利益も出せるようになっていた。しかし、育苗の労働は苗の運搬が主の重労働。まだその当時は春の一時期だけの臨時雇用でも一五、六人の人を雇うことができた。しかしそれで人を雇えるのはせいぜい二ヵ月間。周辺農家も安定した兼業先を得られるようになり、そんな臨時の労働力を得るのがなかなか難しくなり、その当時の技術体系ではすでに経営としての限界が見えていた。そして、人を雇う限り何とか通年の仕事を作らねばだめだと考えていた。

 それに、二、三mも雪が積もる塩沢の農業では、冬の間の半年間は仕事もなく遊んでいるよりなく、通年経営の農業は昔からの願いでもあった。

 そんなころ、カイワレ大根が面白そうだという情報を得た。産地に見学に行くと、やっていることは水稲の育苗と非常によく似ていて、経験が生かせそうだった。

 同じ新潟県でも海に近い地域では雪も少なく、施設野菜の栽培がすでに行われていが、中山間の豪雪地である塩沢では雪のために採算が合わないというのが、おおかたの考え方だった。でも、笛木さんは、むしろまったく反対のことを考えた。そこに、経営者・笛木守氏があるような気がする。

 笛木さんは、こう考えた。

 確かに雪はある。しかし、すでに地下水を使う消雪技術ができており、その対策は可能である。雪国であるために施設コストが高くなることは事実でも、新潟県を市場と考えるなら、そこに立地しているからこそチャンスがあるのだ、と。

 雪国の冬だからこそ青物不足なのだ。しかも当時は、まだ関越トンネルは通じておらず、むしろ雪があるからこそ関東からの流入が少ない。しかも雪のない地域では、カイワレは夏の七、八月が需要のピークだが、雪国の新潟では新鮮な品質の高い青物として安定供給すれば、冬にもう一つのピークがつくれる。それなら、幾らかコストがかかってもやっていけると考えたのだ。

 昭和五八年、笛木さんは約五〇〇〇万円をかけてカイワレの新事業を開始した。同じ年、資本金三〇〇万円で(有)笛木農園を設立し経営を法人化した。市場と取引きしていく上での信用を考えてのことだ。設立と同時に三人の従業員も雇った。

 しかし、小さくともそれなりの資本投下をした企業との競争になるカイワレの事業は、それまでの農協を含めて競争相手はあっても小さな地域を相手の仕事と、その苦労は少しレベルが違っていた。

 新潟県内に二社、それに富山県にも新潟市場を狙う業者があった。当時は、全国的にも生産者が増え第一次カイワレ戦争といわれる時代であった。生産費が三〇円かかるのに、売れるのは五円、一〇円ということもあった。その戦争のさ中、年間に一〇〇〇万、一五〇〇万円も赤字を出した。育苗の利益をすべてつぎ込むようなものであった。笛木さんは現在、年間に四、五〇〇万パックのカイワレを生産している。例えば一円安くなっても、それだけで四、五〇〇万円も減収する仕事なのだ。勝ち残れば新潟県内の市場占有率は七、八〇%になり価格コントロールも可能になり、負ければ倒産。まさに、のるかそるかの戦争だった。最初に県内の業者がつぶれ、ついで富山の業者も撤退した。笛木さんは、その間に三五〇〇万円くらいの赤字を出したが、結局その戦争に勝ち、現在、「笛木のカイワレ」は新潟県で六〇%以上のシェアをもつブランドに成長している。

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