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新・農業経営者ルポ

コシヒカリの里で稲作に頼らない複合経営

魚沼といえばコシヒカリ。コメ消費量の減少と価格の下落によって苦しいコメ農家が多い中、魚沼産コシヒカリのブランド力はやはり強い。しかし、飯塚農場代表の飯塚恭正は、新潟県南魚沼地区で30haある圃場の3分の2を畑作へ転換してユニークな農業経営を行なっている。そこに至る道のりは挑戦と失敗の連続だったが、いまはスイカの高級ブランド「八色スイカ」などが高い評価を受けている。科学的知識に基づく土壌づくり、地域ぐるみの農業、視野の広い経営感覚を大切にする飯塚を支えているのは、日本人の食を支える農業生産への矜持である。 取材・文/田中真知 撮影/土井学
 新潟県南魚沼地区は日本有数の豪雪地帯だ。取材の日もあたりはすっぽり雪に覆われ、ひんやりとした冬の空気が頬に痛かった。

 「晴れていればすぐそこに八海山が見えるんですが」と飯塚が東の方を指さす。「ここは越後三山をひかえた盆地なんです。雪は5月くらいまでありますね」

 その雪解け水と昼夜の気温の差が魚沼産コシヒカリを育む。しかし、飯塚の父・正三が入植した頃、いまの農場のある八色原は水もなく、大きな石がごろごろ転がる荒れ地だった。食べるものといえば、陸稲に麦と大根を混ぜた飯。幼かった飯塚にとっても「お世辞にもおいしくなかった」という。1993年、日本のコメ不足で急遽タイ米が輸入されたとき、日本人の多くは「まずい」「口に合わない」と不平たらたらだった。ところが飯塚は「子どもの頃の貧しい食事に比べれば、タイ米のほうがはるかにおいしかった」と振り返る。

 父の正三は、もとは満州で製材業を営んでいた。終戦後、八色原の2haの原野を自力で開拓したのが農業を始めるきっかけだった。しかし水もなく、石だらけの荒れ地では、「スイカくらいしかまともに育たなかった」という。生活は苦しく、子どもだった飯塚の学級費を払うのにも苦労した。こんな暮らしをいつまでも続けていられない。1956年、正三は賭けに出る。スイカを1.3haつくり、これが当たったら農業をやめて上京しようと決心。だが、疫病が発生してスイカは全滅。目論見は夢と散る。

 進退窮まったとき、上流の集落から水利権を分けてもらえることになった。高度経済成長を背景に国の食糧増産の動きが強まる中、正三は畑作から稲作へと農業形態を転換。以後、水田を買っては農地の拡大を図っていくことになる。

 「あの頃は高度成長期で、出稼ぎすればいくらでも職はありました。まわりの農家も兼業化を図るケースが多く、親父は『いまさら田んぼを買ってコメを作るなんてバカだ』と言われていました。でも、親父は耳を貸さずに田んぼを買っては経営拡大をしていった。なぜ借金まみれになってまで田んぼを買うのか、若かった私も疑問に思いましたが、親父は『いまにわかるから』と言うだけでした。自分が30歳くらいになったとき、『ああ、親父は農業を経営の感覚で考えていたんだな』とわかりました」


減反政策をきっかけに複合経営に挑戦

 減反政策が始まり、コメだけではやっていけないと、再びスイカづくりに挑戦していた正三と飯塚は、初めて県外への出荷を行なう。ところがトラック6tにばら積みしたスイカを市場へ持って行くと、やり手の仲買人はその中から一番出来の悪いものを選んで割って見せてから競りに入った。自分のスイカが安く買い叩かれるのを見て、20代だった飯塚は悔しさを噛みしめた。同時に、品質管理や、人と人との信頼関係がいかに大切かを感じ、それがのちの飯塚農場のポリシーへと発展していくことになる。

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