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減反政策の中で、どうやったら農家として安定的に食べていけるのか。1970年代初めには水田は5haを超え、スイカの作付面積も2haに達していた。だが規模を拡大すると、それだけ天候や販売不振などのリスクも大きくなる。スイカ以外にも新しい栽培品目を開拓しなくてはならなかった。飯塚父子はそこで様々な作物に挑戦するが、それは失敗の連続だった。
ある年には、視察に訪れた長野県で露地の切りバラが10a90万円になると知った。そこで地元農協で転作作物として30万本のバラの苗を導入した。
「バラの苗でいっちょリッチにやろうと思ったんですが、気候が違うせいか胴枯れが起きるんです。こちらは豪雪地帯なので、ハウスでやると暖房費がかかる。結局、3年で全滅しました」
また、あるとき、飯塚はたまたま八百屋でネットに入ったサクランボを手にとった。値段を個数で割ってみると1粒5円。「サクランボは枝先に5円玉がびっちりなっているようなものか」と考えた飯塚は、今度はサクランボ栽培を手がける。400本を植えていい実がなったものの、梅雨時期に熟すためせっかくの実が劣化するし、冬の豪雪期には木が埋もれてしまう。ヨーロッパでは剪定の技術や雨除けを用いる方法があったが、当時はそうした情報も知らなかった。結局、8年やってサクランボも断念。
飯塚の挑戦は続いた。近隣の堀之内地区はユリの生産で日本一だった。そこで1975年、飯塚は1haの畑でユリ球根の育成の下請けを手がける。これがうまくいったらスイカの重労働から解放されると考えたものの、鱗片をはいで繁殖させるという新しい技術についていけず、結局5年でやめた。
「数々の失敗を通して、やはり開拓の時代からあったスイカをやるしかないと思いました。適地適作という言葉がありますが、まさにその通りです」
失敗を糧に土作りの大切さに目覚める
1980年、コメとスイカを中心とした複合経営を安定させようとしていた時期、飯塚にショックな出来事が起きる。初めて県外でのスイカの産直が決まって、その準備を進めていたところ、収穫直前になって疫病が発覚。3haのスイカが全滅という苦渋をなめる。その1カ月後、気の毒に思った生協の組合員より3万円が飯塚のもとに送られてくる。
「本当にうれしかったですね。金額ではなくて、その気持ちに励まされ、がぜん勇気が湧いてきました。この借りはいつか必ず返そうと思いました」
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飯塚恭正 イイヅカヤスマサ
飯塚農場
代表
1944年、新潟県六日町生まれ。父が戦後に開拓した南魚沼市八色原の農場で、魚沼コシヒカリとスイカの栽培から徐々に農地を拡大し、稲作と畑作の複合経営を目指す。減反政策の施行後、コメとスイカの二本柱に加えてニンジン、ジャガイモ、タラの芽、ウド、野菜苗など30品目の栽培に挑戦。通年収入の見込める経営の実現を図る。圃場は八色原に15ha、苗場山麓の津南町に15haの計30ha。専従スタッフは家族9名で、地域ぐるみの農業経営に取り組んでいる。魚沼みなみ有機米部会会長。
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