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その翌年、飯塚は土作りにこだわって有機農業を推進してきた農家の全国ネットワーク組織「マルタ有機農業生産組合」に参加。その研修会で当時、京都大学の教授だった小林達治博士の土壌と微生物についての講義を聞き、目から鱗が落ちる思いをする。それまで飯塚は、いいスイカを作るにはたくさん堆肥をやればいいと単純に考えていた。しかし、研修会に参加したり、土壌についての本を読むうちに「自己流ではだめだ。土作りをきちんと学ばなくては」と考えるようになる。
得た知識をもとに、飯塚は籾殻やおがくず、米ぬかなどを熟成させてつくった堆肥を用いた有機栽培を手がけるようになる。この取り組みにより、スイカの品質は大幅にアップ。一般的なスイカの糖度が11度であるのに対して、飯塚の作るスイカは大玉で糖度が14度、小玉では18度にもなる。
1988年には、飯塚が自分のプロフィールを入れた宣伝用のチラシ5万枚を東京の米屋のルートで配布したところ、3000個の注文を受けることになった。飯塚のスイカの評判はじわじわと広がり、産直の規模が拡大。契約栽培のウエイトも上がっていった。おかげで市場の相場によって収入が左右される不安定な状況から解放されるようになった。飯塚のつくる甘いスイカはいま、「八色スイカ」のブランドで全国的に知られている。
リスクを最小限に食い止められるのが篤農家
経営規模が大きければ、それを支える労働力の確保が問題である。幸いなことに、飯塚の二人の息子はともに自分から農業をやりたいと言いだした。長男だけでなく、機械科を専攻した次男も、大学進学より就農の道を選んだ。
1994年、次男の就農をきっかけに、飯塚は八色原の農場とは別に56kmも離れた津南町に4.6haの土地を手に入れ、第二農場とした。八色原の自宅から車で往復3時間という通勤農業になってしまうが、標高100mほどの八色原と違って、津南町の標高は470mある。時期をずらした野菜の栽培には好都合だった。
「スイカの売上にも波があり、販売が伸びないときもあります。ここは豪雪地帯で裏作もできません。日本の北と南とでは農業をする条件がまったく異なります。ここで通年の農業経営を可能にするには、何をつくったらいいのか、常に模索しています。天候に左右される農業では、いかにリスクを抑え、分散させるかが経営のポイント。篤農家とは結局、リスクを最小限に食い止めるノウハウがある農家ということではないでしょうか」
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飯塚恭正 イイヅカヤスマサ
飯塚農場
代表
1944年、新潟県六日町生まれ。父が戦後に開拓した南魚沼市八色原の農場で、魚沼コシヒカリとスイカの栽培から徐々に農地を拡大し、稲作と畑作の複合経営を目指す。減反政策の施行後、コメとスイカの二本柱に加えてニンジン、ジャガイモ、タラの芽、ウド、野菜苗など30品目の栽培に挑戦。通年収入の見込める経営の実現を図る。圃場は八色原に15ha、苗場山麓の津南町に15haの計30ha。専従スタッフは家族9名で、地域ぐるみの農業経営に取り組んでいる。魚沼みなみ有機米部会会長。
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