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特集

稲直播栽培の技術的可能性と経営的問題点

緻密な配慮と徹底管理の実行が前提

(岡山県岡山市 国定正俊)

夫婦二人の一〇ha経営を目指して

 私は岡山県南部の平坦な干拓地で稲麦を主体とした農業を営んできた。昭和三〇年代後半から規模の拡大を実践していく中で、田植え時には多数の人を泊り込みで雇い、その世話で疲れきり、一方、作業もほかどらず悩んでいた。

 そのころ、この南部地帯には、気候温暖で降雨の少ない条件を活用して、水稲の麦間直播などを試みる先覚者たちがいた。それを見て、この方法なら労力も少なくてすみ、生育の遅れもなく、品質の悪化と収量の低下を防ぐことができるのではないかと思った。そのころには除草剤やウンカの防除剤もよいものができていた。そして、昭和四二年に二〇aに試作したのが、私の直播稲作取り組みの始まりであった。

 折からの機械化の進展とあいまって、直播稲作なら夫婦二人で一〇haの経営も可能ではないかと思い、早速、農地価格の安い二五km離れた西大寺というところの農地三・三haを購入し、自作地一〇haの規模となった。


直播稲作「試行錯誤」の始まり

 初年度の四三年には、西大寺地区の水田については地元の方の意見を聞いて田植え方式としたが、他の農地は乾田直播に切り換え、翌四四年からは全面積をこの方式に切り換え、雇用を全く必要としない農法に転換した。このことによって、他へ支払う労働費はゼロとなり、生育の遅れもなくなり品質の向上に大いに役立った。

 しかし、直播への転換は何の問題もなくできたわけではない。とくに、西大寺の圃場については、その地域でも一番の窪地の冠水常襲地帯であり、その対応に苦労した。

 その対応作として試みたのは、通常より半月早く播種し、肥料も多めにして大きく生長させて入水を迎えれば、耐えられるのではないかという方法であった。案の定、順調に発芽しぐんぐん生長し株もできた。ところが、その後のたび重なる豪雨のために冠水を繰り返し、地表部は茶褐色となり、やがて腐ってしまった。面積が大きいだけに眠れぬ日が続いた。しかし、梅雨明けも間近になったころ、残っていた株元から青い芽が出てきているではないか。その時は地獄で仏の顔を見る思いがしたものだ。その後、芽の数もふえ、やがて大きく生長し、五〇〇kg余の収量を確保することができた。それからというもの、周辺はほとんど直播田になっていった。

 早く播種すればよいことは分かった。しかし、翌年、播種を予定した時期に長雨となり、水田に水がたまってしまった。しかたなく滞水した水を利用しての湛水直播に切り換えた。しかし、乾田方式と比べると、かなりの難儀であった。

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