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新・農業経営者ルポ

きのこ園長の大逆転人生。

転職を重ねてたどりついた終点が、自分の天敵であったはずのシイタケ栽培だった。森林環境を忠実に再現したハウスでシイタケを育て始め、今年で16年目を迎える。販路を市場出荷に頼った時期もあったが、現在は直売所だけで年間4000万円ほどの売上があるという。やがて訪れた顧客の要望を聞くうちにハウスを開放、摘み採ったシイタケをその場で愉しめるバーベキューガーデンも隣接させた。きのこ園の園長が語る、大逆転人生とは。  取材・文/李春成 撮影/土井学

 シイタケの笠を下にして、垂直に薄く刃を入れてゆく。チョコレート色の表皮と、白い肉のコントラストが美しい。とりわけ肉の白さは、乳児の肌のようだ。筆者は石突も好んで食す。直売所で園長にそれを告げると、彼は含み笑いをしたものだ。

 「ウチのシイタケは石突も刺身で食べられますから大丈夫ですよ」

 石突付きだけで4枚、ちょうど10枚のシイタケをスライスできた。

 バーベキューコンロの炭が赤くなるのを見やりながら、紙皿にスライスを並べ、醤油を垂らす。空腹感も手伝ってか、気が急く。はたして、どんな味なのか。割り箸の先でそっと挟み、恐る恐る口に運んでみた。

 うまい。シイタケ独特のツンとした臭みがなく、新鮮な風味が咥内に広がる。園長の齋藤勇人が、足かけ16年の歳月をかけてきた宝物だ。「シイタケを食べると長生きする」と人づてに聞き、『長生き椎茸』と名づけた。だが彼は、まだ納得の域に達していないという。

 トングを片手に、園長自らシイタケを網の上に並べてくれた。まるで愛おしいわが子のように、優しく彼らに触れる。

 「さすがに今日はお客さんもまばらですね。行列ができる日もあるんですがね」

 あいにく、この日は平日だ。天気予報は、午後から雪が降ることを伝えていた。印旛沼から吹き込む冷たい風が、バーベキューハウスのビニールシートをざわつかせる。レジャー日和とは言いがたい寒さに、思わず襟を立てた。焼きたてのシイタケが、待ち遠しくて仕方なかった。


不動産業界に飛び込み街づくりの魅力に触れる

 筆者の友人には「お婆ちゃんの遺言だから」などと言い訳しながら、ネギにそっぽを向く男がいる。じつは齋藤のシイタケ嫌いも、すさまじいものだったという。農業を営んでいた父親の和夫は、秋になると山へ入り、シイタケを摘み採るのが習慣だった。夕食を待つあいだ、シイタケを煮る臭いや、焼く煙が台所から漂ってくる。その時間が、勇人にはひどく辛かった。「こんなものに金を払ってまで食べたがる人間の気が知れない」と、そこまで拒絶するほどの苦手食材だった。そんな人間が、今はシイタケに命を捧げる。いったい、どんな経緯があったのだろうか。

 大学卒業後、リクルートに入社した齋藤は、『住宅情報』の広告営業に従事した。もともと独立志向が強く、「将来のための勉強の場」と割り切っての就職だった。

 実家がある佐倉は、急激な開発が進んでいた。成田空港が開港し、東関東自動車道が開通してから、まだ5年ほどしか経っていない。だが成田まで電車で30分圏内という立地条件が、空港で勤務する人々を佐倉に呼んだ。加えて土地バブルの反動で弾き出された都民も、通勤1時間圏内のマイホームを求めて移動してきた。宅地造成によって田畑は次々と買収され、旧城下町の風景が少しずつ変わりつつある時代だった。

 家業だった農業も、専業から兼業への転換を余儀なくされた。そんな時代に対応するように、父親はコンクリートブロックの製造会社を興す。丘陵地帯などに建設された宅地を支える、擁壁ブロックの製造だ。現在3棟ある栽培ハウスの土地には、この当時、「佐倉コンクリート工業」の看板が人目を引いたものだった。

 息子が懐かしそうに振り返る。

 「経営者としての親父を子どもの頃から見てましたから、自分が将来目指すのも社長業だって決めてたんです。でも、親のあとは継ぎたくないなと。漠然とですが、自分の力で新しい事業を興したかったんです」

 では、何を始めればよいのか。新人時代の齋藤の日々は、それを探すための旅にも等しかった。

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