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新・農業経営者ルポ

糖度計を捨てて美味しいみかんを作ろう

  • (有)柑香園(観音山フルーツガーデン) 代表取締役 児玉典男
  • 第72回 2010年04月28日

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かつて「みかんは儲かる」時代があった。しかし70年代の生産過剰と90年代のオレンジ輸入自由化、そしていちごやメロンの生産増大があり、今みかん生産量はピーク時の3割程度。そして最近では、若年層の果実離れも進んでいるという。そんな時代変化のなかでも、食べる人と向きあった商品開発で、美味しいみかんのブランドを作ってきた経営者を、和歌山に訪ねた。取材・文/長谷川竜生・芹澤比呂也

開墾は明治44年6代続くみかん園

 紀州の北部を流れる紀ノ川沿い、大阪府との分水嶺をなす和歌山県の和泉山脈。優しい山並みのなかに、日本のみかんの故郷がある。温州みかんとして広く知れ渡る日本のみかんは、今から1900年前に田道間守公(たぢまもり)が中国から持ち帰った橘が改良されたもの。田道間守公は今も、みかんとお菓子の神様として祀られている。

 「昔はみかんといえばお菓子代わりだったから、みかん農家だけでなく全国のお菓子職人たちにとっても大切な存在なんですよ」

 そう語る児玉典男(60歳)は、紀ノ川市の観音山に広がる「観音山フルーツガーデン」5代目園主である。

 開墾は明治44年。100年近い歴史を持つみかん園は全国でも珍しい。新しい時代の農業経営を目指し、妻の美恵子(59歳)、長男の芳典(33歳)、昨年入社した太田佳美(27歳)を中心にして、5名のパートタイマー従業員が常勤している。

 現在、温州みかんの他にレモン、デコポン、はっさく、はるみ、きよみなど、柑橘系の果物中心に30種類もの果物を生産しており、すべて「観音山フルーツガーデン」というブランドで全国に直接販売している。販路はスーパー、百貨店、レストラン、ケーキ店などだ。ネット通販用のホームページからは個人ユーザーの注文が最も多い。年間の売上は7000万円。来年は1億円の大台が見えてきた。零細農家が多いみかん農園の中で異色の存在だ。


商人センスが成長の礎

 児玉家は農家であると同時に商人のセンスを持つ家系だった。観音山の開墾に励んだ創始者の吉兵衛から畑を引き継いだ2代目の長次郎は、昭和になると国内販売だけでなく、北米への輸出を始め、朝鮮半島や満州にも販路を広げていったという。地元周辺のみかんも買い取り輸出を始めたのだ。3代目の正男が商売を本格的に軌道に乗せた後、若くして他界すると終戦を迎える。

 出征先の満州から引き揚げてきた政藤は23歳の若さで4代目の園主となった。先代を見習い、カナダへの輸出事業に参入したところ、当時は貴重品だった硫安・硝安・過燐酸が見返り肥料として手に入り、戦争で荒れた畑を復興することができた。税制改革をきっかけに、農家の法人化の重要性を感じ取った政藤は、農業経営の近代化を目指し、52年に全国の果樹生産農家に先駆けて法人化、1柑香園を設立する。しかしその後、農地解放で開墾してきた農地の8分の5を手放すことに。政藤は残っていた水田を転作してはっさくを定植し、柑橘類の果樹専業農家の道を選択した。

 「そして63年の改正農地法です。農業の株式会社化が認められなくなって、父は会社を解散せざるを得なくなりました」

 政藤は、一旦会社を解散して有限会社に組織替えをした。

 こうした児玉家代々の歴史を聞かされながら父、政藤の仕事振りを見て育った典男は、大学の卒業と同時に5代目園主として就農した。ところが、就農1年目にして、いきなりみかん相場の大暴落を経験する。

 「実は意外とすんなり現実を受け入れることができました。これまでも紆余曲折を繰り返しながらみかんと関わってきた歴史があるので、自分の代で何ができるのかを考えました」

 典男の経営課題は一貫している。それは「国際化」と「情報化」だ。そして和歌山県の農家の間で、英会話スクールとパソコンスクールを立ち上げた。

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