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新・農業経営者ルポ

農協職員から専業農家へ 50歳で観光農園経営を目指す

ブルーベリーは、今から50年以上前に米国から導入された果樹である。1990年代になってようやく栽培法が確立したことや、目の疲労回復などに効果があると評判になったことが影響して、一気にブームが到来した。日本全国から青果が入荷する東京都中央卸売市場のブルーベリー入荷量80tのうち、20%を占めるのが千葉県産である(2009年)。元農協職員から専業農家に転身した江澤貞雄は、ブルーベリー栽培の独自技術を確立して観光農園の振興を進めている。取材・文/芹澤比呂也 撮影/土井学

 東京から車で1時間。房総半島の美しい里山に、全国のブルーベリー農家の駆け込み寺がある。東京湾アクアラインのトンネルを抜け、さらに圏央道で内陸部に入ると、両脇に丘陵地帯が迫ってくる。木更津東インターチェンジを降りると、そこは万葉の歌に詠われ、武田家ゆかりの城跡も残された歴史の里だ。ひなびた木舎のJR久留里線駅を過ぎて山道を登ると、小川のせせらぎの横にエザワフルーツランドの看板が立っている。

 園主の江澤貞雄の案内で竹林の中に入ると、道すがらに絶滅危惧種のクマガイソウが葉を広げ、トチバニンジンが赤い実を付けていた。10分ほど山道を歩くと突然視界が開けて、1500本ものブルーベリーが生い茂る光景が目に飛び込んでくる。森林浴をしながら自然との触れ合いを満喫できる森の中の観光農園である。この一帯は、江澤が妻の幸子と二人で開墾した。1haの果樹園だけでなく、5haの山林全体で農薬や除草剤は一切使用していない。おかげで手作業による草刈りは毎年大きな負担となっているが、多様な生物が暮らし、触れ合うことができる環境こそが、この観光農園の大きな付加価値となっているのである。


広告代理店から農協職員への転職

 この山林は、以前は貞雄の父・惣吉(故人)の仕事場でもあった。惣吉は稲作のほか、薪炭林で山仕事もしていた。薪炭林とは、文字通り薪や木炭を生産する目的で維持・管理される里山のことだが、戦後、化石燃料が主流となる中で廃れていった。その後、拡大造林政策が始まるとスギやヒノキの植林を始めたが、全国の里山と同様、この地も安い輸入材に押されて競争力を失った。その結果、間伐作業や下草刈りなどの手入れをされない山が放置され、京葉工業地帯に働きに出る農家が増えていった。平地が少なくなだらかな丘陵を有効活用しようと、山の斜面を切り開いてインゲンやナシの栽培も試みられていたが、農家の収入は増えなかった。そんな時代の変遷を感じながら育った江澤は、当初は農業には見向きもしなかった。得意な絵の技術を生かそうと東京のデザイン専門学校に進学し、都内の広告代理店に就職する。ところが27歳の時に人生の大きな転機がやってきた。家の長男が分家したことで急遽、次男である江澤が実家を継ぐことになり、木更津に戻ったのである。

 新しい職場は地元の農協だった。江澤は営農指導課に配属されるが、組合員を指導する立場でありながら、経験も知識もおぼつかない状態だった。そこで、持ち前のチャレンジ精神で農業の現場を歩き回りながら、ゼロから猛勉強を始める。農協離れと農業離れが同時に進む中、地域の人々が昔から生業の場としてきた山林を生かしながら、農業振興ができないかと考えるようになっていった。当時、営農指導員の花形はレタスやインゲンなど野菜の担当者だった。ところが江澤は、豊かな自然に触れることができる都会人向けの観光農園が有望だと確信して研究を始めた。

 「それにはまず、無農薬栽培に挑戦する必要があったのです。ところが新しい作物に無農薬栽培で挑戦しようと呼びかけても、私のような若い指導員の言うことに耳を貸す組合員はほとんどいませんでした」

 江澤は自ら実践することにした。ナシ、リンゴ、モモ、サクランボ、カリン、キウイ。あらゆる種類の果樹を試験栽培する中で、無農薬でもこの地で栽培できそうな果樹を発見した。そのひとつがブルーベリーだったのである。

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