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農業経営者ルポ

百姓・百勝・百笑

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第9回 1995年03月01日

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 「村とか農業の世界というのは、皆が一緒ではないと角もたつし、そういうことを避ける風潮があります。でも、やることも考えることも様々に違う人がいる方が健康で未来があるのだと思う。私は村では少数派だけど、そのことにプライドを持っています。かといって多数派を否定するつもりも必要もない。むしろ、多数派でいるより少数派だからこそ学べることも多い。孤立さえしなければ…。農業と都会、あるいは他産業との関係も同じではないか。否定し合うよりそれを認め合うことの方が生産的でしょう…」

 そして挨拶の最後に、

 「僕はこれから経営を小さくしていこうと考えてるのです。現在の経営条件、そして僕の住む場所の風土、土、自然をもっと活かし切る経営で程々に暮らすことを目指したい」と。

 それを聞いていたある人が、

 「あの人はこれからもっと成長する人だよ。あの前向きで人間的若々しさ、それにあの人には、鋳型にはめられていない健康的な不格好さというものがあるヨ。ほら、子犬だって、柴犬のような犬は小さいときから形が整っているけど、大きく成長する犬ほど足だけがやたら大きかったりして不格好なものだろ。ヒトも同じだよ」と耳打ちした。

 江藤さんを評するなんとうまいたとえだろう。彼は、どんな家族、どんな両親の間で育ち、何を経験してきたのだろうか。


子は親の背中を見て育つ


 熊本空港からスガノ農機熊本営業所の所長福原氏のトラックで約二時間、前日に降った雪が所々白く染めた阿蘇の外輪山を抜け、さらに山里に入ったところに江藤さんの家はあった。

 江藤さんの家族は、父の幸さん(63歳)、母・いつみさん(62歳)、そして一幸さんと妻の由美さん(36歳)の間には江里奈ちゃん(4歳)と広大ちゃん(2歳)の二人。また、江藤さんには福岡で寿司職人をしている弟がいるそうだ。

 子供の頃に父を亡くし、小さなころから母親を助けて弟たちを育ててきたという幸さんは、働くこと、未来を考えて今を辛抱するという習慣ができていたのかもしれない。昭和二九年、幸さんが単身開拓に入った当初、畑は酸性の強い火山灰土で肥料もなく、陸稲がわずかに取れるだけだった。嫁いできたいつみさんとともに、鍬と鎌で原野を少しずつ開拓し、畑を改良していった。当時、政府から開拓民へ肥料の配給もあったが、多くの農家がそれを現金にあるいは食べ物に変えたようなとき、幸さんはなけなしのお金を出してそんな人たちから肥料を買い、畑に入れた。牛も飼った。売る目的もあったが堆肥が欲しかったのだ。

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