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人生・農業リセット再出発

日本からやって来たエスキモー!



 安田恭輔はアラスカ売買の翌年、明治元年に宮城県石巻市で医者の次男として生まれる。15歳で両親と死別してから、地元の貨物船事務所で働き、22歳で渡米した。米国沿岸警備船「ベアー号」に雑用係として採用され、人種差別を受けながら苦労して乗船している時に、凍結した海上で船が遭難する。船に残された乗員たちの生死を一手に背負って、280kmも離れている町まで救助を求め、氷点下30度の氷原を単身で1週間も歩き続ける。食料も体力も尽き果て、闇の空で乱舞するオーロラに抱かれて絶命する寸前に、奇跡的にエスキモーに助けられる。後に鯨漁の名手となり、エスキモー頭領の娘であるネビロと結婚することになる。

 ところが白人による鯨の乱獲や海賊行為で、エスキモーの食料が枯渇し、餓死する村が出始めた。酷寒の地では穀物栽培の習慣はなく、彼らの食料は鯨と海獣の生肉のみだった。それに追い討ちをかけるように、白人から麻疹や天然痘が持ち込まれ、免疫のない彼らが全滅する“幽霊村”が続出した。危機を察したフランク安田は、北極圏を捨て、ブルックス山脈の向こう側に新天地を求めて集団移動を決行する。金鉱探しは、危機を乗り切るための経済的苦難の過程でもあった。集団移動時には、エスキモー女性クナーナを妻に持つ日本人、ジェームズ・ミナノも加わり、彼は穀物や野菜の栽培に挑戦する。栽培はそのうち軌道に乗り、収穫物は町へ出荷されるまでになった。

 人が生き生きとした天職を得た時には、ツキは自然と向こうからやってくるもの。かくして新生エスキモー文化圏が無名の日本人たちによって築かれるのだが、それは後世に輝かしく知られることもなく今日に至っている。フランク安田は一度も日本に帰国することなく90歳の生涯を終えた。彼の功績を残すべく、ブルックス山脈には「ヤスダマウンテン」と米国政府によって正式に名付けられた山がある。それを知る者は少ない。

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