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新・農業経営者ルポ

通勤農業が生み出した創意工夫とipad活用術

戦前からショウガ生産が盛んな高知県高知市行川地区。ここに住む多くの農家は、規模拡大と日照と水はけのよい農地を求めて近隣の市へ出作する。種ショウガを生産・販売する(有)ホソギ・トレーディング社長・細木博幸もそのひとり。農地は車で40分かかる場所で、圃場管理をどうするかが悩みの種だったという細木は、最新の通信手段と、ちょっとしたアイデアを使って新しい圃場管理システムを導入し始める。中山間地だからこそ生まれた創意工夫と農業経営者の知恵とはいかなるものか──。 取材・文/紺野浩二(編集部) 撮影/川村公志

戦前から長らく作られ続けてきたショウガ

 昨年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の舞台として脚光を浴びた高知県。坂本龍馬や三菱グループの始祖である岩崎弥太郎、さらには板垣退助、中江兆民、幸徳秋水など、進取の精神に富む人材を輩出していることもあってか、その県民性は「議論好きで、負けん気が強く、新しい物好き」と言われている。

 「新しい物好き」という点では、種ショウガを生産・販売する(有)ホソギ・トレーディング社長・細木博幸(45)は、この県民性の特徴にぴったり当てはまる。

 細木の自宅は、高知市中心部から車で20分ほど行った、行川という地にある。行川は標高150mほどの中山間地だ。集落を蛇行するように流れる行川川にはモクズガニやウナギが生息する。その間を挟むようにして棚田とショウガ畑が広がる。細木の子どもが通う行川小中学校は、ひとつの校舎に小学校と中学校が入っており、行事も合同で行なっているという。あたかもここだけが時間が止まってしまったような、そんな雰囲気の地域だ。

 行川にはこんな歌がある。戦前、地区の住民が夏祭りのために作った歌だという。

 「行川名産タイモにショウガ ねりま大根京布のり サカサイサイ エッサイサイデ…、行川河原にカジカが泣けば主と二人で梶さらす」

 細木家は代々この土地で農業を営んできた。細木が幼い頃、父・直正(71)は露地野菜の栽培や稲作、乳牛の飼育で生計を立ててきた。かつての住居は牛舎と一体となったもので、細木家の生活は「決して楽なものではありませんでした」。

 そんな行川であり、細木家だったのだが、日本が高度成長期を過ぎると、徐々に状況が変わっていった。牽引役となったのが、ショウガだった。


農家が求める種ショウガの生産事業に経営をシフト

 先ほどの歌にあるように、ショウガはこの地で長らく作られ続けてきた作物だ。高知県園芸連が1972年に発行した『組合と50年』という文献によれば、「昭和初年に高知市福井に入っており」という記述が見受けられる。しかし、現在のように高知がショウガの大産地になるのは、1970年以降のことだ。減反作物として急激に生産量が増えていったのだ。南アジアが原産地のショウガは高温多湿を好み、高知では栽培しやすいという地の利があったのも大きい。細木は、その当時を振り返ってこう話す。

 「昔は生産の技術が低かったこともあって供給量のばらつきが多く、価格の乱高下が大きかった。つまり投機的な要素の強い作目だったんです。中にはショウガ御殿を建てるような農家も現れたので、畑を借りてショウガを作る農家が、一挙に増えたのです」

 こうした背景もあって、77年に細木家の農業経営はショウガ生産農家を対象に、種ショウガの生産・販売にシフトしていった。現在は高知県内のみならず、千葉県など県外産地との取引も行なっている。

 細木が扱う種ショウガは、品種としては高知在来の「大生姜」と呼ばれるものだが、「土佐一」という商品名を付けている。

 「父が親戚の農家から質の高いショウガの株を譲り受けて栽培を開始したんです。株の選別を続けることで、最高の1株を作りだし、これを種にできました。この土佐一を商標登録しようと思って動いたんですが、まだ認められていません。在来品種ということもあってなかなか難しいようですけど」

 一農家自らが種を商標登録するということは珍しく、細木の意欲が感じられる行動だろう。

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