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北海道長沼発ヒール・ミヤイの憎まれ口通信

日本が1日で変わった3月のあの日

その昔、1974年の多摩川水害を題材にしたTVドラマ『岸辺のアルバム』を家族と見ていた私の弟は「川のそばに家は絶対建てない」と突然話し始めた。「じゃ~どこに建てるんだ?」と私が聞くと「どのようなことがあっても川の堤防よりも高い場所にする」と答えた。私は意地悪く、「高い場所に建てて、土砂崩れになったらどうするんだ?」と聞くと、弟は黙り込んでしまった。弟は大学卒業まで長沼にいたので、標高が5~6mしかないこの地帯の水害による被害のことはよく覚えていたのだろう。この56災害と呼ばれた昭和56(1981)年の8月4日の朝、自宅のドアを開けた時、目の間に現れたのは銀色に光る水面だった。

答えが出そうで、出ない「安心とは? 安全とは?」

 その昔、1974年の多摩川水害を題材にしたTVドラマ『岸辺のアルバム』を家族と見ていた私の弟は「川のそばに家は絶対建てない」と突然話し始めた。「じゃ~どこに建てるんだ?」と私が聞くと「どのようなことがあっても川の堤防よりも高い場所にする」と答えた。私は意地悪く、「高い場所に建てて、土砂崩れになったらどうするんだ?」と聞くと、弟は黙り込んでしまった。弟は大学卒業まで長沼にいたので、標高が5~6mしかないこの地帯の水害による被害のことはよく覚えていたのだろう。この56災害と呼ばれた昭和56(1981)年の8月4日の朝、自宅のドアを開けた時、目の間に現れたのは銀色に光る水面だった。

 それから20年が過ぎ東京・町田に住む弟の一戸建ては相模川の堤防よりは明らかに高い場所にあるが、その代わりローン地獄と通勤地獄を味わうことになる。

 56災害では長沼町の半分以上の面積が水没した。原因は地域に数カ所ある、ポンプ場の処理能力が一晩300mm以上の降雨に対応できなかったからだ。後から聞くところによると、当時の処理能力は水害があっても、転作率が20%程度だった水田に30cmの水が24時間貯まることを基準としていた。担当者に「では水害があった場合、水田農家は24時間、30cmの水を貯めておいていただけるのですか?」と聞いた。もちろん担当者は答えることはできなかったし、現実は洪水時に畔を壊して、水を排水させた水田農家を責められなかった。基準とはどれほどの価値を持つものなのか疑問を感じた。

 ここからは勇気をもって発言することになる。「安全とは? 安心とは一体何なんだ?」と自問自答したい。

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