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新・農業経営者ルポ

“山梨らしさ”と経営者感覚が育んできた銘柄牛

記憶に新しいところではBSE問題や産地偽装問題、さらには長らく続く消費低迷、穀物価格高騰やTPP参加など、肉用牛肥育経営者を取り巻く環境は厳しさの一途を増すばかり。廃業を強いられる経営者が多い中、山梨県甲斐市で「甲州ワインビーフ」の名前で知られる肉牛1350頭を肥育する小林牧場の躍進ぶりは出色である。ブドウの搾りかすを飼料に用いた大胆なコスト管理、大規模経営、直売店の設置など、日本の畜産業界のハードルを次々と乗り越えていく同社社長・小林輝男の手腕には、時代を読むことと、経営との関係を考えるうえで多くのヒントがある。取材・文/田中真知

 やまなしという響きとは裏腹に山梨には「山梨百名山」と呼ばれる数々の美しい山がある。中でもひときわ美しい黒富士、曲岳、太刀岡山などが連なる山並みを、森をぬけて登っていくと、標高およそ1000mの山間の斜面に、たくさんの牛舎が立ち並ぶ光景が現れる。

 肉用牛肥育業者としては例外的な大規模経営で知られる(有)小林牧場。県内にある3カ所の牧場の直売所の経営も好調で、年商は約7億円に達する。しかし、その歩みは、牛肉の輸入自由化に始まり、O157問題、BSE、産地偽装問題といった畜産業界を取り巻く多くの困難との戦いの連続だった。同社社長・小林輝男は、ワイン生産量日本一という山梨県の特長を生かして、牛の飼料にブドウの搾りかすを用いて差別化を図り、時代が次々とくり出すボディーブローをかわし、強い経営を実現してきた。


家族経営から持続可能な経営体を目指して

 小林の父・幸男がこの地に入植したのは1961年だった。もともとは大工をしていたのだが、肺を悪くして農業への転身を志した。ただし農業の経験はなかった。

 「最初は野菜だけを作っていたんですが、酪農に転身しようということで乳牛1頭から始めたんです。もちろん、すぐにはやっていけませんから、父は生活のために土木作業をして、ちょっとお金がたまると、牛を買うという暮らしでした」

 そんな父の姿を間近で見てきて、小林も物心ついた時には農業以外の仕事に就くことは考えられなかった。69年、小林が県立農業大学校を卒業する頃には牛の数は10頭になっていた。しかし、小林はすぐには就農せず、地元の農協で家畜人工授精士として働き出す。酪農の仕事をするにあたって、技術を身につけておきたいと考えたのだった。

 「私も間もなく結婚して2家族による経営という形になりました。昭和50年代には約60頭の乳牛がいましたが、それだけの頭数がいれば、なんとか食べてはいけましたね」

 牧場経営は順調だったものの、まわりを見てみると、ほかの業界はそれ以上に伸びていた時代だった。海外旅行も盛んになり、物質的にも潤沢な、ゆとりある生活が日本を覆い始めていた。それにくらべれば、今は安定しているものの、酪農の将来には不安がつきまとっていたのも事実だった。

 85年、父が60歳になったのを節目に、小林は牧場経営を引き継ぐ。その際、これからの経営のあり方をあらためて検討することにした。父と一緒に働いてきて、矛盾を感じてきた点を解決していかなければ、と小林は考えた。今のところはよくても、果たして自分の子どもたちに牧場の仕事を受け渡すことができるだろうかと考えた時、家族経営の形ではまず無理だと小林は思った。

 「ひとつは休日の問題があります。家族経営している畜産農家には休みがないんです。冠婚葬祭だってままならない。では、休日のとれる経営をするにはどうしたらよいのか。それには規模を大きくして分業するしかありません。食料生産には将来性があると確信していました。だとしても時代に合った持続可能な経営体にしていくにはどうしたらいいのかというのが悩みの種でした」

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