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特集

菅野祥孝(スガノ農機(株)相談役)氏を悼む


地域の人たちの手に負えない田んぼを何とかしようと考えて、70馬力、80馬力くらいのトラクタを導入しました。さらに、昭和57年くらいに北海道でも台数が少なかった130馬力を鳥取に引っ張ってきます。土作りというより、構造改善で何ともしようがなくなった田んぼをどうするかということから耕種農業にかかわり始めたのです。転作にかかわることがまず土をほぐすことでした。水田地帯ですけど、20インチの3連、4連プラウを同時に入れ、それを水田で使って20cm、30cmとひっくり返しました。当時は田んぼをプラウで起こすと地主がすっ飛んできて、「やめてくれ」なんていう時代でした。そんな人たちを含めて、今、私は約100haの経営で、200戸くらいの農家から土地を借りていて、田んぼの枚数も450枚くらいあります。初めて使ったのがスガノのプラウだったものですから、逆に祥孝さんが「鳥取で20インチの大きなプラウを本当に使っているのですか」とおたずねくださいました。お付き合いはそのときからです。


昆 当時であれば130馬力のトラクタなんて水田地帯では補助金の対象にならなかったんでは。

田中 いろんな制度はあったんです。利子の補てんとか半額助成だとか。先ほど言ったように、耕うん機が10馬力くらいのトラクタに変わり、集団だとか農協が導入しているのが30馬力、40馬力の時代ですから、とんでもない話なんですね。転作事業のことで県とかいろんなところに相談に行きますと、「過剰投資も甚だしい、まして100馬力を超えるトラクタなんて対象外もいいところだ」と。昭和50年代半ばの鳥取では、「ここは鳥取ですよ、北海道ではない」なんて言われました。私がサブソイラのことを話すと、専門技術員でも「サブソイラとは何ですか」と逆に聞かれるような時代でした。北海道だったら先輩とかやり方とかいっぱいあったのかもしれませんが、鳥取で大豆を作るのは文字通り手探りでした。

昆 田中さんは100ha規模の借地経営でほとんどが地続きの農地です。田中さんがそういう機械を装備して転作を全部受け、しかも補助金はみな地権者に渡して、あなたは土方に行っていました。田中さんが農地の集積をできているというのはそういうことで地権者を納得させていったところがあると思います。よく役人や学者は農地の集積が難しいと言うんですが、農地の集積も経営力の一つですね。まさに田中さんがそれを実現しました。そのあたりも祥孝さんの積年良土思想に通じるものがあります。やってきた土作りの結果というのが、現在の非常に高く売れるコメや黒豆、ネギにつながっていると思います。

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